今後30年以内に首都圏南部及び水戸市で震度6以上の揺れが起きる確率は80%と見積もられている(調査研究推進本部・地震調査委員会資料(平成29年4月))。
この事実は、 首都圏は一度壊滅する事を示している。その際には巨大な復興特需が起きるだろう。茨城にとって重要なのは、他の首都圏と自己を差異化し、この際の損害を最小化し、特需による利得を最大化する事だ。前提として東海第二原発の廃炉が必須だが、次に為すべきは遷都を、安全圏化しつつ新政府に有利な県内へ行わせる為に全ての手筈を整えておくことだ。先ず復興庁や国交省らを動かし、県内の耐震・制震・免震化を助成金によって最大限おこない、液状化で住みようがなくなる首都圏南部と完璧にすみ分ける。次に東南海地震によって破滅する東海道と異なり、災害に絶対的安全を確立するべきである。
2018年2月25日
2018年2月24日
日立国論
今の日本国民全般はマスメディアやサブカルチャー、また文科省の与えた教育等、東京都に洗脳された情報環境を通じたものの考え方や見方をする。そしてセトロニン・トランスポーター数の少ない脳の遺伝的変異をもっていて、この為に群衆化を自己目的に行い、周囲の日本人一般と見なした集合意識へ同調したがる。この東京発の情報環境下での全体主義集団心理が魅力度報道をはじめとする一切の日本人の典型的偏見や差別を生み出している。又、彼らにとってこの偏見や差別を自己批評的にのりこえる事は極めて困難なばかりか、恐怖のあまり吐き気を催す体験であり、科学的真や道徳的善をはじめ、美醜や価値判断の一切を集合的他者と見なせる多数派世間に頼り、自分自身でこの国家規模の洗脳から抜け出す勇気も意欲もない。逆に、日本国民全般は、積極的に東京のマスメディアや政府、その他ネット世論等、周囲に同調できる多数派集団と見なした相手へ、卑屈なまでに追従したがる。
少なくとも、ブランド総研の田中章雄はじめ、都民の一切にとって、他県を差別や偏見で塗り固めて貶める事は、単なる商売であって、それによる法的・倫理的制裁が政府機関や世間から行われない限り、罪も恥も全く感じないであろう。この決まった千人程度のブランド総研会員に対する主観的なイメージ調査を毎年くりかえす事による稼業は、田中章雄にとってもその他の日本国民にとっても門地差別エンターテインメントとなっており、その集団虐待の対象がどの自治体になろうと、単にストレス解消の為の特定自治体に属する一部国民への汚辱ゲームとしか日本人全般は考えないであろう。この決まった会員を対象にしても、その他の人々を対象にしても、田中章雄やマスコミの主要関係者が住まう東京都が47位になる可能性が十分に低いので、いわば絶対的安全地帯から不利な条件に置かれた日本人に汚名を着せ差別と偏見で侮辱する事を、これら一部都民は生業にし、その他の衆愚的日本人も半ば悪意で同調しているのである。
上述のことを十分に省みると、具体的に問題を解決するには、
1.田中章雄と総合ブランド研究所を地上から除去するか、
2.東京都のマスコミ各社に差別・偏見の報道を禁じる法制を布くか、さもなければ
3.日本国民全般の遺伝子を地上から除去するか、
これらの3つのうちどれかしかないように見える。1で田中章雄の寿命によって解決する場合をいえば、この特定自治体への差別・偏見による商売が終わるにはあと10年以上かかるかもしれない。それ以前に、田中が事故、病気、その他の事件で死亡した場合は、もっと早く、この報道公害が終わるかもしれない。3で日本国民全般という差別や偏見を厭ったり情報の批評的理解力に欠けた同調脳を持った衆愚をこの世から民族浄化する場合については、米中軍や国連軍等による大規模な戦争が起きたり、何らかの天災、或いは疫病の流行等で、一網打尽にしたりする事が考えられる。2の差別偏見の報道公害を防止する道筋については、自由圏においてかなり難しい事ではあるが、安倍政権ならやりかねないという意味で、国政と内閣に強く訴える事はかなり有効といえようが、報道公益への弾圧の糸口にもなる諸刃の剣ともなりうる。
大井川知事を含め、茨城県民も日本国民も、この問題が報道公害や日本人の衆愚的集団虐待の悪意という、構造的な差別問題なのを自覚していない。そしてそもそもこの集合無意識が出てくる源泉は、神道という奈良発の弥生系民族宗教と、その教祖である天皇という象徴的権威が都心に住んでいるという都鄙差別の構造である。この根底にあるのは、遣隋使以来、天皇が中国風の中華思想を模倣し華夷秩序を述べてきた事にあり、いわば「京都思想」と言える当時の天皇が住む大都市における自文化・自民族中心主義と、その蔑視対象であり搾取対象としての田園地帯という神道的帝国主義そのものといえる。逆に、イギリスは荘園領主以来の紳士や郷紳の貴族政治が上院に維持され、イングランド国王は連邦各地を封土として特権階級に付与するという形式をとるので、近代都市よりむしろ田舎地帯が尊く、美しく、守られるべき原風景という国風や民情をもっている。明治以後の日本人全般は田舎や農地を頭ごなしに差別し、農民階級をも蔑視し、都心部での商人生活や官吏が格上の存在だという一種の妄想をもっている。もしこの事が中国の文化構造の忠実な移植なら、なぜ日本や中国に限って、イギリスの価値観が植民地を通じて世界では一般的なのに対して、これほど極端な都鄙に対する価値観の違いが生まれたのか。この都鄙差別の根本原因をとりのぞく事こそ、唯一、わが県民がこの世界において誉れ高き誇りと気高い名誉をとりもどす最初にして最後の手段と言う他ない。それは、水戸学において貫かれていた尊皇考を否定し、のりこえる事に如くはない。
中華皇帝の模倣者として奈良で奈良時代に捏造された、奈良人の先祖たる中朝系の特定弥生人崇拝の新宗教は、それまで日本に遍在していた自然崇拝を、中国風の多神教に染めて、いわば在来日本人を奈良の中朝移民の奴隷に仕立てようとした。この自然崇拝と、神道という新しい多神教は、歴史の長さにおいて数万年の開きがあり、別の信仰形態である。実際、明治時代に天皇政府が強要するまで、アイヌはこの原型的自然崇拝を維持していた。最低でも3万年以上日本列島に住んできた縄文民族こそ本来の先住権をもつ本州の日本人であり、天皇の先祖であろう弥生民族は、今から7000年前の弥生時代に侵入ないし侵略してきた異民族であったのだし、この末裔たる天皇も我々日本人の直接的な先祖とはいいがたい。外来目線でいえば征服者、日本目線でいえば侵略者の天皇を天皇自身と共犯的に、政府権力にとりこんできた歴代将軍や首相は、自ら執政する都心を神格化・偶像化させ、礼拝なり崇敬させる事によって日本人の帰順や服従を宗教的な洗脳や情報操作によって誘導してきた。つまり現時点の安倍晋三氏も、或いは側近にいる麻生太郎氏も、かつての華族や公卿連中、徳川家や毛利家、島津家の様に天皇と血縁・親戚関係を結ぶ事で、自らの政治的権威を絶対化しようとはかっている。そして茨城県、かつての常陸国並びに下総国が東京都民や日本国民全般から、意識的にせよ無意識的にせよ魅力度報道にみられるよう実質的な差別対象にされている理由といえば、この薩長藩閥と天皇家の東京政府における血族支配体制による、旧徳川家の強権的支配地への冷遇に違いない。勿論、徳川氏も天皇の親族であったが故に、その権力を確固たるものとするべくして、家康の代においても、義烈・慶喜公の代、水戸家においても皇族との縁戚関係が結ばれていた。勿論、単に民放テレビ局をもっていないから外部に知られていないとか、まだ知られていないだけとか適当な理由をひねりだして、薩長閥、皇族閥による徳川支配地への差別をなかったことにしようとする者がいるのは理解できなくはないが、尾張こと名古屋市が都市の魅力度で最低と同じく差別されている事についてかんがみても、また福島や新潟、青森といった奥羽越列藩同盟側の主要な地域に東電や日本原電による原発災厄が準備されているのは、明らかに西軍からなる日本政府関係者、及び日本国民全般からの悪意によるものだとみなす方が自然な証拠におもう。これが被害妄想であるというのは簡単だが、現実に福島原発事故時の菅直人、それ前後の安倍晋三という山口県出身の長州閥首相をみるに、これらの人々は明らかに明治イデオロギーによる日本国内の旧徳川方への侵略内乱罪含むありとあらゆる嫌がらせと悪意を、全く恥じたり罪と反省する気配がないどころか、心底からの悪で暴挙をしているというべきなのである。勿論、これらの手先に実行させてはいるにせよ、天皇家が真の悪の親玉なのはいうまでもない。端的に結論をいうと、茨城県が再び常陸国として国内及び世界に名誉を回復するには、天皇家と薩長藩閥による日本政府を一旦滅ぼし去り、新政府を現茨城県内に茨城県勢から樹立し、その新政府において、常陸国(日立国)を立国、完全に日本国から独立し直す事しか道のりはなさそうである。上述の1~3の選択肢のうち、1について田中章雄の死後、報道を通じて散々洗脳された日本人衆愚は相も変わらず茨城県を偏見と悪意から差別し、侮辱し続けるかもしれない。また2について、東京の報道がどれほど悪意と偏見、差別、虚偽と暴挙に満ちていても、結局は県外人のmedia literacyや文化人類学的な他地域への批評的理解力が低いままなら、別のさらに邪悪な洗脳を受けて同じ差別をくりかえすだけであろう。これは県内に限っては然るべき教育によって改善しようものの、神道的中華思想、京都思想を持った衆愚にあっては全く希望はない。現東京政府がいかに全国民へ博愛精神やそれぞれの地域文化や伝統に対する理解と敬意を教え込もうとしたところで、天皇独裁あるいは将軍専制による都鄙差別という二千年間にも及ぶ愚民化・奴隷化政策のあとで、どれほど民情の回天に時間がかかるだろう。そもそも弥生時代以後の日本各地は、おもに縄文人と弥生人の間で、あるいは弥生人間での内乱が平均150年単位でくりかえされてきており、その混血がかなり進んだ今日にあっても、150年前の戊辰戦争が最後の両民族間での内乱だというべきである。この様な内乱が起きる理由は、日本の先住人と、弥生系侵入者との間にはY染色体ハプログループに関する限り遺伝的距離が7万年も離れていて、弥生人は既に住民のいた大陸・半島から排斥されたり何らかの訳で移住して無人の西日本に植民した以上、そもそも日本人の為に移民してきたわけではないので呉越同舟に過ぎない事、その上考え方や感じ方といった文化にあまりに違いがあり、日本や東南アジアの肥沃な大地に狩猟採集生活をしてきた縄文人の共和的利他主義に対して、おそらく不毛な草原地帯の続く北アジアや中国朝鮮に暮らしてきた弥生人の簒奪的利己主義というその傾向の真逆さは、長らく日本国内の武力を伴う摩擦の原因になっている。はっきりいえば、この傾向は性格遺伝子の違いに由来している可能性もあるので、相互の本性自体を変える事はおそらく難しいであろう。勿論、個人の単位では利他的弥生人や利己的縄文人の末裔も存在し、文化の詳細にはもっと複雑な地点もあるだろうが、ここで単純化して理解した両者の違いが、結局は薩長や西日本人の人々の自己賛美と東国蔑視、そして東京に来た彼ら弥生系移民の末裔による自己崇拝と、周辺の田園地帯や工業地帯を朝貢する農奴・奴隷の居住区とでも言いたげな、中華官僚的差別意識を生み出している原因なのである。この華夷秩序において自己神格化をはかってきた天皇の様に、弥生人が歴史的にもっている利己性や簒奪性という傾向は、平成時代においては農工の侮蔑と士商の賛美という二極化をもたらした。なぜなら、東京に入ってきたこの天皇家という簒奪者や薩長土肥京の末裔たる華族・官僚連中はひたすら周辺国民を暴力や権力濫用で収奪すればいい、あるいは政商の癒着によって暴利すればいいと解釈したからである。岩手出身の先住日本人の民主政治を冤罪にかけてまで冤罪報道・疑獄する割に、山口出身の中朝移民といえそうな人物だとか奈良に帰化したその末裔による違憲行政や金権政治の数々を称賛する東京以西の衆愚を鑑みよ。これらの人々は、端的にいって純粋に利己的にふるまう事を本性に基づいてしているだけで、日本人全般を奴隷化する事に何の疑問もないからそうしている。他方で、日本人全般は、もし彼らが先住人の血筋を引いていれば猶更、もともと利他的で共和的な平和文明を数万年にわたり国内で維持してきた種族であるから、これらの横暴を働きたがる独裁者・寡頭政治家らを一種の内に秘めた反抗心を保ちながらも、むしろ許容してしまうのである。『古事記』に記録されたところ以前にも、古墳時代以前においてこの侵略者たる弥生人集団と戦った各地の長は間違いなくいたし、それ以後も、天皇家が悪意をもって抹消してきた数多の先住日本人達の長、そして住民らがいた。靖国神社が慶喜公の末裔である徳川宮司において尊皇親幕の会津合祀や、徳川派への裏切りや濡れ衣の果てに最後には長州閥にも抗った西南戦における薩摩閥の合祀を行おうとしたところ、一部の山口県民の利己のみが目的の長州閥原理主義右翼がそれを非難したわけだが、この背後には、天皇の独裁権に反抗する者を徹底して差別し汚辱し歴史的に抹消しよう、という利他心を一切もたない完全悪の邪教神道の教祖・天皇による悪意が横たわっている。そして弟への常陸宮という親王任国の名義づけを天皇家が踏襲しながらに、天皇支配の平成政府下の民衆が、当の茨城県を軽侮し、差別し、偏見により蔑視する事は、それが天皇崇拝と国民蔑視、結果としての都心崇拝と田舎蔑視という神道教義の実践段階だと考えているからに他ならないのである。しかも、長州閥独裁政権下で日本人衆愚がこの卑しい差別心と邪教崇拝の邪念から蔑視対象にしているのは、常陸水戸や尾張名古屋といった旧徳川御三家の歴史と伝統が息づいている地域なのである。
これが魅力度報道の決定的な民族精神分析であって、 大井川知事が単純に考えている様な外部に知られていない、という宣伝効果だけでは決して説明できない事なのだ。司馬遼太郎ら明治賛美の長州閥原理主義または神道原理主義右翼らは、その尊皇考や象徴天皇の体制論が当の水戸に直接由来している事など、全く知らない。逆に統一日本による欧米からの植民侵略を防ごうとした専守防衛理論たる正義の水戸学を、天皇を箔づけにした利己の権力簒奪の為の倒幕イデオロギーや侵略内乱の松陰植民地主義の正当化に悪解釈し、明治以後の内外侵略や神道原理主義的創氏改名・廃仏毀釈等の天皇帝国主義に至らせたのが、薩長藩閥を主とした西軍と天皇家である。この事も、利他的傾向をもつ縄文文明の末裔としての水戸の平和主義やそれを支援した奥羽越列と、利己的で害他的な傾向を恥もしなければむしろ誇ってさえいる弥生系移民の末裔の西国諸地域に対極的にみられる傾向の摩擦だといえる。滋賀出身の原田伊織は幕府の忠臣を述べてありながら天皇家や徳川家に攻撃した、忠義の点で日和見的な行動を幕末にとった井伊家を正当化する為に、浅薄な悪解釈で水戸学を非難しているが、一言でいえばろくに文献を読んでもおらず、その思想体系について何も理解していないといえよう。これらの全ての悪意は、徳川宗家が戦国時代の末期に内治を完成させ、江戸時代を通じて行った専制政治への恨み、そして水戸家の尊皇を貫いた慶喜公が天皇を守り大局的判断で第二の関ヶ原というべき東西主力軍の内乱分裂により日本の欧米による植民侵略を避け、自己犠牲的に継いだ宗家や一橋家、自らの実家水戸家の地位を捨ててまで祖国防衛を両立すべく禅譲した事への無理解・誤解と悪解釈、或いは暴力至上主義や反平和主義からの罵詈雑言や讒言、侮辱が原因だといえる。日本人衆愚が水戸家や水戸学、徳川慶喜の立場を理解するには程遠いが、それは薩長藩閥中心主義、薩長史観、明治史観、天皇史観によって禅譲した慶喜や徳川家への敗者の烙印を押し続け、しかもこの利他的な、本来の意味で純日本的な行動原理を、本性から理解しえない弥生民族の末裔という生まれも育ちも悪い移民集団による無理解・誤解・悪解釈の偏見と差別によって迫害しよう、というのが、天皇家、安倍家、麻生家、そして日本政府や日本国民全体ぐるみでの悪しき目的なのである。要するに、これらの水戸の徳川家による政治は、実際には我々茨城県民、そして常陸国民におしつけられたものである。我々は自らそれを選び取っては全然いない。我々の土着の支配者は佐竹家だったのであり、それ以前には武田家や伊達家など様々な群雄が割拠していたのであり、さらに遡れば純日本人達が平和文明を建国していた。徳川氏は群馬、愛知経由で武蔵・江戸に出てきて、そこから佐竹を退けさせて徳川家の末裔を我々の領地におしつけてきた。そしてこの支配に逆らったとみなされた、生瀬村の事例にあるよう、単に役人もどきの詐欺に騙されただけでも、水戸徳川氏の軍によって村ごと惨殺され消されてしまったのである。この様な厳格な支配体制下で何とか生き抜いたうえ、忠義に基づいて最大限、祖国防衛の為の利他行動に死力を尽くしたのが水戸と茨城の先人であって、天狗党も諸生党も含め、その後の全ての人々も含め、単に常陸一国、下総国のことだけを考えていたのではなく、むしろ会沢正志斎や藤田東湖、桜田義士や芹沢鴨らのよう、今日の日本全体を思い、日本と言う国号を実質的に制定した烈公や、象徴天皇や議会政治の直接の祖である慶喜公のように、明らかに普遍的政治道徳に基づいた正道を辿ってきたのは、薩長土肥でも京都でも広島でもなく、それどころか攘夷が不可能なのに征夷大将軍という防衛省の役割を放棄して義勇軍の天狗党を弾圧をしたり西郷と島津の暗躍で冤罪にかけられた水戸へ疑獄内乱を起こし自己崩壊を招いて江戸・東京でもなく、茨城こと常陸国の人々なのである。
全国民から収奪したカネや財物を消費するので商人が集まった都心に住まう中韓移民の天皇が主で、その侵略犯に農作物や工業製品を貢納するのが日本先住の国民であり、この飛鳥時代以来の日本人差別に基づく腐敗した独裁政の主従関係は、今をもって終わりを告げた。確かに水戸の徳川家は、5億年以上続く常陸の全史に重要な時代を作り、特に歴史学の分野で一家言を作り、儒教や国学を大成した偉大な史書や派生した思想をもたらしたし、それは常陸を含む日本全体の近代化の原理となって統一国家を形成し植民地侵略を防いだし、殖産興業や愛民思想に基づいた仁政徳政の事績は常陸を全国二の農業大県にしたし、烈公が発展させようと考え命名した北海道も全国一の農業県になった。これらは農本思想に基づいた民を慈しむ儒教的仁政の理想と水戸学者によって宮中祭祀に復活した新嘗祭に象徴される秋津洲の瑞穂の国を体現しているし、私以外の誰も水戸家の偉大な貴族性をもはや評価していないとしても、私は最大限に彼らの理想的な統治者としての資質を理解しているつもりだ。ユネスコが弘道館と偕楽園の構想に今は無き武士の平和国家を守る清冽な気概をみてとれないとしても、もし義烈両公が今日の常陸を見渡せば、恐らく民の努力に感激し、彼らの理念が忠実に再現されていったその後の発展史に満足する事だろう。敵の辱めを受けぬ前に水戸城を焼き払った高潔においても、慶喜家を歓待しその最期を常陸国水戸において畏敬の念において見送りえた事の忠節においても。一方で、日本国民全体から貶められ辱められた武士道と常陸水戸の地位は、いかなる手立てをとろうと最高の名誉をもって復活されねばならないし、その為には、県外のいかなる日本国民を犠牲にしようが、もはや躊躇も寛恕もいらない。なぜ県外人が茨城県民の名誉を貶めるか、辱めるかと言えば、彼らの無知のみならず、当の常陸人によって確立された尊皇の理念を衆愚が誤解し、君民一和、尊皇愛民どころか天皇を崇め国民を蔑んでいるからであり、挙句の果てに食のありがたさや農工尊重の念をも忘却し東京商人のカネ儲けと腐敗官僚の贅沢を卑しい町人都民の扇動によって偏重しているからに他ならない。この事態の根源原因は天皇という邪教祖なのも、又明らかである。義公は皇国史観を通じ古代王朝の末裔としての天皇を神格化し、妻である皇族を通じて水戸徳川氏の尊皇愛民の副将軍たる地位を確固たるものにしようとしたのだろう。だが、その尊皇精神こそが衆愚の都心妄信と田舎蔑視の原因となっているのなら、これはもはや主権者たる茨城県民自身のただの本末転倒の自損に過ぎないのであって、今や我々は尊皇主義を破却しなければならない。一体、この宇宙のどこに差別される為に悪しき侵略者の教祖を崇める愚か者がいるだろう。日本国民という県外衆愚に我々の名誉がけがされない為には、天皇や日本政府と手を切り、たとえ一県なりといえども一国として再び独立し、自律自衛の軍事増強の為に富国強兵を徹底し、県外国外からの内政干渉のそしり一切を完全に排除する事が必要だ。県外の天皇政府に財政的に依存していたり、日本政府からの軍事的支配を受けている事こそ、わが常陸の国民が自らの自律を侵害されている原因に違いない。
もし日立国が独立後も、外人がわが国をそしり、貶め、辱めてきたとしたら、その事を歯牙にかける必要は全くない。わが国がその歴史と伝統において傑出した偉大さを保ち続けている事が重要なのであり、それには国民一人が自らの尊厳を宇宙で最も高い次元に保ち、尽忠報国と主権の権化であればそれで十分である。日本国という烈公が植民地化を防ぐべく名付けた単位は、期限切れのものとなり、わが日立国の前に滅び去る事になるだろう。現時点では誇大妄想と受け取られる見解にみえるだろうが、私は必然の未来を見通し、単に近い将来の世代から見れば当然の事実を述べているにすぎない。日立国外人は我々自身とは関係がない。単に、必要なのは主権を完全に樹立し、それを永遠にたもつ為の軍事独立に他ならず、この為には300万国民全員が最後の1人になるまでゲリラ戦を続け、日立国の独立の為にあらゆる手を尽くす事が最善だ。またこの独立を維持する為の武器の開発を何より最優先とし、ひたすら各国の軍事を学習し続けるべきである。金融業を国家産業とし、ここで得た利潤は全て、日立国の尊厳を自律によって守るべく、軍事費に費やす覚悟がいる。金融軍事大国が、茨城県の後裔たる日立国の執るべき方途である事を明記しておく。なぜなら、武士が発祥し最後の将軍の末裔が亡くなったこの常陸は、正真正銘の武士の国であるからだ。この武士道を完成させる事こそ、首都水戸に託された使命だといわねばならない。日本国民にいかに侮辱され罵られ偏見で差別を受けても、我々自身が誇り高き正道を辿ってさえいれば、完全に無視できる。その正道こそ、常陸あらため日立を国家として日本から独立させ、我々国民自身による国民の為の本来の共和国家を統治する事である。抑圧者・弾圧者・侵略者・内政干渉者である日本国民こそ、我々日立国民の敵に他ならない。天皇は敗れ、亡び去る。日本政府は廃れ、消え去る。その後に残るのはわが国だけである。我々は今から、偉大な先人たちのあとを継ぎ、我が国が世界中から正しく理解され、尊敬され、最も名誉ある国民の一人であるとひたちの全員が見なされる事を当然と考え、その為にもてる限りのあらん限りの死力を尽くさねばならない。国外の衆愚を我々が脳ごと取り換える事はできない。いくら説得しようが宣伝しようが、明治イデオロギー狂信者や、水戸学の尊皇論を誤解し神道京都思想で田舎蔑視して恥じぬ愚民愚官愚皇になにをいおうが無駄である。これらの愚者、卑人はサルと考え、完全無視が唯一の対処法である。代わりに、我々自身がいかなる理想の幸福を、いかなる理想の福祉を、いかなる理想の尊貴なる永遠国家を作りうるか、そして最大の力と正義をもって我が国日立を軍事的に防衛し続けられるか、試さねばならないのだ。
少なくとも、ブランド総研の田中章雄はじめ、都民の一切にとって、他県を差別や偏見で塗り固めて貶める事は、単なる商売であって、それによる法的・倫理的制裁が政府機関や世間から行われない限り、罪も恥も全く感じないであろう。この決まった千人程度のブランド総研会員に対する主観的なイメージ調査を毎年くりかえす事による稼業は、田中章雄にとってもその他の日本国民にとっても門地差別エンターテインメントとなっており、その集団虐待の対象がどの自治体になろうと、単にストレス解消の為の特定自治体に属する一部国民への汚辱ゲームとしか日本人全般は考えないであろう。この決まった会員を対象にしても、その他の人々を対象にしても、田中章雄やマスコミの主要関係者が住まう東京都が47位になる可能性が十分に低いので、いわば絶対的安全地帯から不利な条件に置かれた日本人に汚名を着せ差別と偏見で侮辱する事を、これら一部都民は生業にし、その他の衆愚的日本人も半ば悪意で同調しているのである。
上述のことを十分に省みると、具体的に問題を解決するには、
1.田中章雄と総合ブランド研究所を地上から除去するか、
2.東京都のマスコミ各社に差別・偏見の報道を禁じる法制を布くか、さもなければ
3.日本国民全般の遺伝子を地上から除去するか、
これらの3つのうちどれかしかないように見える。1で田中章雄の寿命によって解決する場合をいえば、この特定自治体への差別・偏見による商売が終わるにはあと10年以上かかるかもしれない。それ以前に、田中が事故、病気、その他の事件で死亡した場合は、もっと早く、この報道公害が終わるかもしれない。3で日本国民全般という差別や偏見を厭ったり情報の批評的理解力に欠けた同調脳を持った衆愚をこの世から民族浄化する場合については、米中軍や国連軍等による大規模な戦争が起きたり、何らかの天災、或いは疫病の流行等で、一網打尽にしたりする事が考えられる。2の差別偏見の報道公害を防止する道筋については、自由圏においてかなり難しい事ではあるが、安倍政権ならやりかねないという意味で、国政と内閣に強く訴える事はかなり有効といえようが、報道公益への弾圧の糸口にもなる諸刃の剣ともなりうる。
大井川知事を含め、茨城県民も日本国民も、この問題が報道公害や日本人の衆愚的集団虐待の悪意という、構造的な差別問題なのを自覚していない。そしてそもそもこの集合無意識が出てくる源泉は、神道という奈良発の弥生系民族宗教と、その教祖である天皇という象徴的権威が都心に住んでいるという都鄙差別の構造である。この根底にあるのは、遣隋使以来、天皇が中国風の中華思想を模倣し華夷秩序を述べてきた事にあり、いわば「京都思想」と言える当時の天皇が住む大都市における自文化・自民族中心主義と、その蔑視対象であり搾取対象としての田園地帯という神道的帝国主義そのものといえる。逆に、イギリスは荘園領主以来の紳士や郷紳の貴族政治が上院に維持され、イングランド国王は連邦各地を封土として特権階級に付与するという形式をとるので、近代都市よりむしろ田舎地帯が尊く、美しく、守られるべき原風景という国風や民情をもっている。明治以後の日本人全般は田舎や農地を頭ごなしに差別し、農民階級をも蔑視し、都心部での商人生活や官吏が格上の存在だという一種の妄想をもっている。もしこの事が中国の文化構造の忠実な移植なら、なぜ日本や中国に限って、イギリスの価値観が植民地を通じて世界では一般的なのに対して、これほど極端な都鄙に対する価値観の違いが生まれたのか。この都鄙差別の根本原因をとりのぞく事こそ、唯一、わが県民がこの世界において誉れ高き誇りと気高い名誉をとりもどす最初にして最後の手段と言う他ない。それは、水戸学において貫かれていた尊皇考を否定し、のりこえる事に如くはない。
中華皇帝の模倣者として奈良で奈良時代に捏造された、奈良人の先祖たる中朝系の特定弥生人崇拝の新宗教は、それまで日本に遍在していた自然崇拝を、中国風の多神教に染めて、いわば在来日本人を奈良の中朝移民の奴隷に仕立てようとした。この自然崇拝と、神道という新しい多神教は、歴史の長さにおいて数万年の開きがあり、別の信仰形態である。実際、明治時代に天皇政府が強要するまで、アイヌはこの原型的自然崇拝を維持していた。最低でも3万年以上日本列島に住んできた縄文民族こそ本来の先住権をもつ本州の日本人であり、天皇の先祖であろう弥生民族は、今から7000年前の弥生時代に侵入ないし侵略してきた異民族であったのだし、この末裔たる天皇も我々日本人の直接的な先祖とはいいがたい。外来目線でいえば征服者、日本目線でいえば侵略者の天皇を天皇自身と共犯的に、政府権力にとりこんできた歴代将軍や首相は、自ら執政する都心を神格化・偶像化させ、礼拝なり崇敬させる事によって日本人の帰順や服従を宗教的な洗脳や情報操作によって誘導してきた。つまり現時点の安倍晋三氏も、或いは側近にいる麻生太郎氏も、かつての華族や公卿連中、徳川家や毛利家、島津家の様に天皇と血縁・親戚関係を結ぶ事で、自らの政治的権威を絶対化しようとはかっている。そして茨城県、かつての常陸国並びに下総国が東京都民や日本国民全般から、意識的にせよ無意識的にせよ魅力度報道にみられるよう実質的な差別対象にされている理由といえば、この薩長藩閥と天皇家の東京政府における血族支配体制による、旧徳川家の強権的支配地への冷遇に違いない。勿論、徳川氏も天皇の親族であったが故に、その権力を確固たるものとするべくして、家康の代においても、義烈・慶喜公の代、水戸家においても皇族との縁戚関係が結ばれていた。勿論、単に民放テレビ局をもっていないから外部に知られていないとか、まだ知られていないだけとか適当な理由をひねりだして、薩長閥、皇族閥による徳川支配地への差別をなかったことにしようとする者がいるのは理解できなくはないが、尾張こと名古屋市が都市の魅力度で最低と同じく差別されている事についてかんがみても、また福島や新潟、青森といった奥羽越列藩同盟側の主要な地域に東電や日本原電による原発災厄が準備されているのは、明らかに西軍からなる日本政府関係者、及び日本国民全般からの悪意によるものだとみなす方が自然な証拠におもう。これが被害妄想であるというのは簡単だが、現実に福島原発事故時の菅直人、それ前後の安倍晋三という山口県出身の長州閥首相をみるに、これらの人々は明らかに明治イデオロギーによる日本国内の旧徳川方への侵略内乱罪含むありとあらゆる嫌がらせと悪意を、全く恥じたり罪と反省する気配がないどころか、心底からの悪で暴挙をしているというべきなのである。勿論、これらの手先に実行させてはいるにせよ、天皇家が真の悪の親玉なのはいうまでもない。端的に結論をいうと、茨城県が再び常陸国として国内及び世界に名誉を回復するには、天皇家と薩長藩閥による日本政府を一旦滅ぼし去り、新政府を現茨城県内に茨城県勢から樹立し、その新政府において、常陸国(日立国)を立国、完全に日本国から独立し直す事しか道のりはなさそうである。上述の1~3の選択肢のうち、1について田中章雄の死後、報道を通じて散々洗脳された日本人衆愚は相も変わらず茨城県を偏見と悪意から差別し、侮辱し続けるかもしれない。また2について、東京の報道がどれほど悪意と偏見、差別、虚偽と暴挙に満ちていても、結局は県外人のmedia literacyや文化人類学的な他地域への批評的理解力が低いままなら、別のさらに邪悪な洗脳を受けて同じ差別をくりかえすだけであろう。これは県内に限っては然るべき教育によって改善しようものの、神道的中華思想、京都思想を持った衆愚にあっては全く希望はない。現東京政府がいかに全国民へ博愛精神やそれぞれの地域文化や伝統に対する理解と敬意を教え込もうとしたところで、天皇独裁あるいは将軍専制による都鄙差別という二千年間にも及ぶ愚民化・奴隷化政策のあとで、どれほど民情の回天に時間がかかるだろう。そもそも弥生時代以後の日本各地は、おもに縄文人と弥生人の間で、あるいは弥生人間での内乱が平均150年単位でくりかえされてきており、その混血がかなり進んだ今日にあっても、150年前の戊辰戦争が最後の両民族間での内乱だというべきである。この様な内乱が起きる理由は、日本の先住人と、弥生系侵入者との間にはY染色体ハプログループに関する限り遺伝的距離が7万年も離れていて、弥生人は既に住民のいた大陸・半島から排斥されたり何らかの訳で移住して無人の西日本に植民した以上、そもそも日本人の為に移民してきたわけではないので呉越同舟に過ぎない事、その上考え方や感じ方といった文化にあまりに違いがあり、日本や東南アジアの肥沃な大地に狩猟採集生活をしてきた縄文人の共和的利他主義に対して、おそらく不毛な草原地帯の続く北アジアや中国朝鮮に暮らしてきた弥生人の簒奪的利己主義というその傾向の真逆さは、長らく日本国内の武力を伴う摩擦の原因になっている。はっきりいえば、この傾向は性格遺伝子の違いに由来している可能性もあるので、相互の本性自体を変える事はおそらく難しいであろう。勿論、個人の単位では利他的弥生人や利己的縄文人の末裔も存在し、文化の詳細にはもっと複雑な地点もあるだろうが、ここで単純化して理解した両者の違いが、結局は薩長や西日本人の人々の自己賛美と東国蔑視、そして東京に来た彼ら弥生系移民の末裔による自己崇拝と、周辺の田園地帯や工業地帯を朝貢する農奴・奴隷の居住区とでも言いたげな、中華官僚的差別意識を生み出している原因なのである。この華夷秩序において自己神格化をはかってきた天皇の様に、弥生人が歴史的にもっている利己性や簒奪性という傾向は、平成時代においては農工の侮蔑と士商の賛美という二極化をもたらした。なぜなら、東京に入ってきたこの天皇家という簒奪者や薩長土肥京の末裔たる華族・官僚連中はひたすら周辺国民を暴力や権力濫用で収奪すればいい、あるいは政商の癒着によって暴利すればいいと解釈したからである。岩手出身の先住日本人の民主政治を冤罪にかけてまで冤罪報道・疑獄する割に、山口出身の中朝移民といえそうな人物だとか奈良に帰化したその末裔による違憲行政や金権政治の数々を称賛する東京以西の衆愚を鑑みよ。これらの人々は、端的にいって純粋に利己的にふるまう事を本性に基づいてしているだけで、日本人全般を奴隷化する事に何の疑問もないからそうしている。他方で、日本人全般は、もし彼らが先住人の血筋を引いていれば猶更、もともと利他的で共和的な平和文明を数万年にわたり国内で維持してきた種族であるから、これらの横暴を働きたがる独裁者・寡頭政治家らを一種の内に秘めた反抗心を保ちながらも、むしろ許容してしまうのである。『古事記』に記録されたところ以前にも、古墳時代以前においてこの侵略者たる弥生人集団と戦った各地の長は間違いなくいたし、それ以後も、天皇家が悪意をもって抹消してきた数多の先住日本人達の長、そして住民らがいた。靖国神社が慶喜公の末裔である徳川宮司において尊皇親幕の会津合祀や、徳川派への裏切りや濡れ衣の果てに最後には長州閥にも抗った西南戦における薩摩閥の合祀を行おうとしたところ、一部の山口県民の利己のみが目的の長州閥原理主義右翼がそれを非難したわけだが、この背後には、天皇の独裁権に反抗する者を徹底して差別し汚辱し歴史的に抹消しよう、という利他心を一切もたない完全悪の邪教神道の教祖・天皇による悪意が横たわっている。そして弟への常陸宮という親王任国の名義づけを天皇家が踏襲しながらに、天皇支配の平成政府下の民衆が、当の茨城県を軽侮し、差別し、偏見により蔑視する事は、それが天皇崇拝と国民蔑視、結果としての都心崇拝と田舎蔑視という神道教義の実践段階だと考えているからに他ならないのである。しかも、長州閥独裁政権下で日本人衆愚がこの卑しい差別心と邪教崇拝の邪念から蔑視対象にしているのは、常陸水戸や尾張名古屋といった旧徳川御三家の歴史と伝統が息づいている地域なのである。
これが魅力度報道の決定的な民族精神分析であって、 大井川知事が単純に考えている様な外部に知られていない、という宣伝効果だけでは決して説明できない事なのだ。司馬遼太郎ら明治賛美の長州閥原理主義または神道原理主義右翼らは、その尊皇考や象徴天皇の体制論が当の水戸に直接由来している事など、全く知らない。逆に統一日本による欧米からの植民侵略を防ごうとした専守防衛理論たる正義の水戸学を、天皇を箔づけにした利己の権力簒奪の為の倒幕イデオロギーや侵略内乱の松陰植民地主義の正当化に悪解釈し、明治以後の内外侵略や神道原理主義的創氏改名・廃仏毀釈等の天皇帝国主義に至らせたのが、薩長藩閥を主とした西軍と天皇家である。この事も、利他的傾向をもつ縄文文明の末裔としての水戸の平和主義やそれを支援した奥羽越列と、利己的で害他的な傾向を恥もしなければむしろ誇ってさえいる弥生系移民の末裔の西国諸地域に対極的にみられる傾向の摩擦だといえる。滋賀出身の原田伊織は幕府の忠臣を述べてありながら天皇家や徳川家に攻撃した、忠義の点で日和見的な行動を幕末にとった井伊家を正当化する為に、浅薄な悪解釈で水戸学を非難しているが、一言でいえばろくに文献を読んでもおらず、その思想体系について何も理解していないといえよう。これらの全ての悪意は、徳川宗家が戦国時代の末期に内治を完成させ、江戸時代を通じて行った専制政治への恨み、そして水戸家の尊皇を貫いた慶喜公が天皇を守り大局的判断で第二の関ヶ原というべき東西主力軍の内乱分裂により日本の欧米による植民侵略を避け、自己犠牲的に継いだ宗家や一橋家、自らの実家水戸家の地位を捨ててまで祖国防衛を両立すべく禅譲した事への無理解・誤解と悪解釈、或いは暴力至上主義や反平和主義からの罵詈雑言や讒言、侮辱が原因だといえる。日本人衆愚が水戸家や水戸学、徳川慶喜の立場を理解するには程遠いが、それは薩長藩閥中心主義、薩長史観、明治史観、天皇史観によって禅譲した慶喜や徳川家への敗者の烙印を押し続け、しかもこの利他的な、本来の意味で純日本的な行動原理を、本性から理解しえない弥生民族の末裔という生まれも育ちも悪い移民集団による無理解・誤解・悪解釈の偏見と差別によって迫害しよう、というのが、天皇家、安倍家、麻生家、そして日本政府や日本国民全体ぐるみでの悪しき目的なのである。要するに、これらの水戸の徳川家による政治は、実際には我々茨城県民、そして常陸国民におしつけられたものである。我々は自らそれを選び取っては全然いない。我々の土着の支配者は佐竹家だったのであり、それ以前には武田家や伊達家など様々な群雄が割拠していたのであり、さらに遡れば純日本人達が平和文明を建国していた。徳川氏は群馬、愛知経由で武蔵・江戸に出てきて、そこから佐竹を退けさせて徳川家の末裔を我々の領地におしつけてきた。そしてこの支配に逆らったとみなされた、生瀬村の事例にあるよう、単に役人もどきの詐欺に騙されただけでも、水戸徳川氏の軍によって村ごと惨殺され消されてしまったのである。この様な厳格な支配体制下で何とか生き抜いたうえ、忠義に基づいて最大限、祖国防衛の為の利他行動に死力を尽くしたのが水戸と茨城の先人であって、天狗党も諸生党も含め、その後の全ての人々も含め、単に常陸一国、下総国のことだけを考えていたのではなく、むしろ会沢正志斎や藤田東湖、桜田義士や芹沢鴨らのよう、今日の日本全体を思い、日本と言う国号を実質的に制定した烈公や、象徴天皇や議会政治の直接の祖である慶喜公のように、明らかに普遍的政治道徳に基づいた正道を辿ってきたのは、薩長土肥でも京都でも広島でもなく、それどころか攘夷が不可能なのに征夷大将軍という防衛省の役割を放棄して義勇軍の天狗党を弾圧をしたり西郷と島津の暗躍で冤罪にかけられた水戸へ疑獄内乱を起こし自己崩壊を招いて江戸・東京でもなく、茨城こと常陸国の人々なのである。
全国民から収奪したカネや財物を消費するので商人が集まった都心に住まう中韓移民の天皇が主で、その侵略犯に農作物や工業製品を貢納するのが日本先住の国民であり、この飛鳥時代以来の日本人差別に基づく腐敗した独裁政の主従関係は、今をもって終わりを告げた。確かに水戸の徳川家は、5億年以上続く常陸の全史に重要な時代を作り、特に歴史学の分野で一家言を作り、儒教や国学を大成した偉大な史書や派生した思想をもたらしたし、それは常陸を含む日本全体の近代化の原理となって統一国家を形成し植民地侵略を防いだし、殖産興業や愛民思想に基づいた仁政徳政の事績は常陸を全国二の農業大県にしたし、烈公が発展させようと考え命名した北海道も全国一の農業県になった。これらは農本思想に基づいた民を慈しむ儒教的仁政の理想と水戸学者によって宮中祭祀に復活した新嘗祭に象徴される秋津洲の瑞穂の国を体現しているし、私以外の誰も水戸家の偉大な貴族性をもはや評価していないとしても、私は最大限に彼らの理想的な統治者としての資質を理解しているつもりだ。ユネスコが弘道館と偕楽園の構想に今は無き武士の平和国家を守る清冽な気概をみてとれないとしても、もし義烈両公が今日の常陸を見渡せば、恐らく民の努力に感激し、彼らの理念が忠実に再現されていったその後の発展史に満足する事だろう。敵の辱めを受けぬ前に水戸城を焼き払った高潔においても、慶喜家を歓待しその最期を常陸国水戸において畏敬の念において見送りえた事の忠節においても。一方で、日本国民全体から貶められ辱められた武士道と常陸水戸の地位は、いかなる手立てをとろうと最高の名誉をもって復活されねばならないし、その為には、県外のいかなる日本国民を犠牲にしようが、もはや躊躇も寛恕もいらない。なぜ県外人が茨城県民の名誉を貶めるか、辱めるかと言えば、彼らの無知のみならず、当の常陸人によって確立された尊皇の理念を衆愚が誤解し、君民一和、尊皇愛民どころか天皇を崇め国民を蔑んでいるからであり、挙句の果てに食のありがたさや農工尊重の念をも忘却し東京商人のカネ儲けと腐敗官僚の贅沢を卑しい町人都民の扇動によって偏重しているからに他ならない。この事態の根源原因は天皇という邪教祖なのも、又明らかである。義公は皇国史観を通じ古代王朝の末裔としての天皇を神格化し、妻である皇族を通じて水戸徳川氏の尊皇愛民の副将軍たる地位を確固たるものにしようとしたのだろう。だが、その尊皇精神こそが衆愚の都心妄信と田舎蔑視の原因となっているのなら、これはもはや主権者たる茨城県民自身のただの本末転倒の自損に過ぎないのであって、今や我々は尊皇主義を破却しなければならない。一体、この宇宙のどこに差別される為に悪しき侵略者の教祖を崇める愚か者がいるだろう。日本国民という県外衆愚に我々の名誉がけがされない為には、天皇や日本政府と手を切り、たとえ一県なりといえども一国として再び独立し、自律自衛の軍事増強の為に富国強兵を徹底し、県外国外からの内政干渉のそしり一切を完全に排除する事が必要だ。県外の天皇政府に財政的に依存していたり、日本政府からの軍事的支配を受けている事こそ、わが常陸の国民が自らの自律を侵害されている原因に違いない。
もし日立国が独立後も、外人がわが国をそしり、貶め、辱めてきたとしたら、その事を歯牙にかける必要は全くない。わが国がその歴史と伝統において傑出した偉大さを保ち続けている事が重要なのであり、それには国民一人が自らの尊厳を宇宙で最も高い次元に保ち、尽忠報国と主権の権化であればそれで十分である。日本国という烈公が植民地化を防ぐべく名付けた単位は、期限切れのものとなり、わが日立国の前に滅び去る事になるだろう。現時点では誇大妄想と受け取られる見解にみえるだろうが、私は必然の未来を見通し、単に近い将来の世代から見れば当然の事実を述べているにすぎない。日立国外人は我々自身とは関係がない。単に、必要なのは主権を完全に樹立し、それを永遠にたもつ為の軍事独立に他ならず、この為には300万国民全員が最後の1人になるまでゲリラ戦を続け、日立国の独立の為にあらゆる手を尽くす事が最善だ。またこの独立を維持する為の武器の開発を何より最優先とし、ひたすら各国の軍事を学習し続けるべきである。金融業を国家産業とし、ここで得た利潤は全て、日立国の尊厳を自律によって守るべく、軍事費に費やす覚悟がいる。金融軍事大国が、茨城県の後裔たる日立国の執るべき方途である事を明記しておく。なぜなら、武士が発祥し最後の将軍の末裔が亡くなったこの常陸は、正真正銘の武士の国であるからだ。この武士道を完成させる事こそ、首都水戸に託された使命だといわねばならない。日本国民にいかに侮辱され罵られ偏見で差別を受けても、我々自身が誇り高き正道を辿ってさえいれば、完全に無視できる。その正道こそ、常陸あらため日立を国家として日本から独立させ、我々国民自身による国民の為の本来の共和国家を統治する事である。抑圧者・弾圧者・侵略者・内政干渉者である日本国民こそ、我々日立国民の敵に他ならない。天皇は敗れ、亡び去る。日本政府は廃れ、消え去る。その後に残るのはわが国だけである。我々は今から、偉大な先人たちのあとを継ぎ、我が国が世界中から正しく理解され、尊敬され、最も名誉ある国民の一人であるとひたちの全員が見なされる事を当然と考え、その為にもてる限りのあらん限りの死力を尽くさねばならない。国外の衆愚を我々が脳ごと取り換える事はできない。いくら説得しようが宣伝しようが、明治イデオロギー狂信者や、水戸学の尊皇論を誤解し神道京都思想で田舎蔑視して恥じぬ愚民愚官愚皇になにをいおうが無駄である。これらの愚者、卑人はサルと考え、完全無視が唯一の対処法である。代わりに、我々自身がいかなる理想の幸福を、いかなる理想の福祉を、いかなる理想の尊貴なる永遠国家を作りうるか、そして最大の力と正義をもって我が国日立を軍事的に防衛し続けられるか、試さねばならないのだ。
2018年2月23日
磁気浮上式滑走部による常磐線とTXの電磁浮動化
常磐線の各列車、スーパーひたち、TXにIronLev社の磁気浮上式滑走部を採用し、後に県内企業がこの磁気浮動式滑走部を改良した特許を再取得してグローバル展開を図るべきである。これによって通勤通学時間を短縮でき、県内へ過剰人口流入中の首都圏における住宅と職場の建設を誘致、開発特区にできる。又それにあたっては、私鉄を呼び込むべくJRの鉄道を民間事業者に共有するよう国会議員と法制に働きかけるべきだ。TXを水戸駅まで延線する事も、県南から県央まで人口流入をはかる事になる。
イタリアのスタートアップであるIronLevが2018年2月に発表した特許は、すべて「メイド・イン・イタリー」の磁気浮上式走行装置だ。最大の特徴は、既存の線路で使えるよう考案されている点にある。新しくレールを敷設することも、列車を設計し直す必要もない。車輪をIronLevが開発した磁気浮上式の滑走部に交換するだけでいいのだ。
「滑走部を列車に取り付けるだけで、つまり新しい車両をつくらなくても、世界中の150万km以上の鉄道路線を利用できるようになります」とIronLevの社長、アドリアーノ・ジロットは説明する。
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IronLevの磁気浮上式滑走部を活用した列車では、消費電力がより小さくなると見込まれている。環境保護につながるだけでなく、レールの摩耗も少なくなるため、レールの製造と維持にかかるコストも低減できるだろう。
ジロットは「パッシヴ磁気浮上の原理により、10キロの重量を持ち上げるのと同じ力で10トンの車両を動かすことができます。使われる唯一のエネルギーは、車両を動かすためのものだけです。路線によっては、そして技術の発展の度合いによっては、音速より速く走行できるでしょう」と主張する。https://wired.jp/2018/02/23/ironlev-from-italy/
2018年2月21日
安倍独裁下での茨城県政論
アリストテレスのいう部分的正義について平成の現在にあてはめて解釈すると、配分に偏り過ぎた拝金主義や自由人主義(libertarianism)、調整に偏り過ぎた労働主義や生保主義(生活保護主義)はいずれも合目的ではない。配分と調整の両極をもちあげた中庸、即ち調和といえるのは、民社主義や社民主義だといえる。民社または社民主義による高福祉化にあたっては、官僚制の弊害を避ける為、民営化が同時セットでなければならない。
また以下にその理由を詳しく説明するが、非正規雇用法の撤廃あるいは改善によって、非正規労働者の方が正規労働者より給与が高くなるよう企業に義務付ける事が第一に必要な施策だろう。なぜなら、非正規雇用法を通した小泉政権と、その後裔としてさらに金融緩和を非正規雇用法撤廃より先に行い中流没落を招いた安倍政権を主とした自民党が、平成の日本経済及びその百年の計たる国政に深刻な失敗を招いた第一原因である。一言でいうと自民政治が失敗しているわけだが、その理由の最たるものが、アメリカかぶれの竹中平蔵が新自由主義を小泉・安倍両政権下で日本に導入しようとし、先進国でアメリカに次ぐ相対貧困大国にしてしまった上、社民的福祉化も社会主義への偏見や、麻生・安倍という皇族閥の既得権益維持の為の保守信仰、または安倍の親米的保身によって怠ったので、国民全体の低所得化によって人口減少による国家衰退が決定的になった事だ。竹中はパソナグループによる人材派遣業で政商としてしこたま儲けたが、途中で自らの政策的失敗に気づき北欧を称賛しだすころまでおこぼれ理論を本気で信じていたのである。
2018年段階で安倍独裁とその支持者達は日本の拝金化を極端に進めているが、それは経済ではない政治の調整的役割を理解していないからであり、いいかえれば彼らは調整的正義を認知しない衆愚だといえる。拝金は社会的不公平を拡大し、多数を占める人々の相対貧困化を進め、低教育・低教養の蔓延は階級移動を妨げるので、民衆一般に客観的幸福度が低くなる。安倍政権下で日本国内衆愚中に結束主義的愛国心の強調が見られるのは、批判的思考の欠如からくる無思考と生得的に少ないセトロニン・トランスポーター数による不安脳の故に自己目的な群衆化の確証偏見を強化してしまうと同時に、北朝鮮・韓国・中国の軍事的脅威を強調する安倍の仮想敵扇動による独裁権力強化の作戦から更に不安脳を煽られているからであろう。つまり、平成の労働者達が安倍独裁下での拝金的な格差拡大政策が彼らに不利で彼らの信じる労働主義と対立しているのに肯定するのは、およそ、独裁者を結束的に狂信する事が最も複雑な社会状況を考えたり、社会批評的に解析しなくて済むからである。 平成末期はこの様な衆愚政状態だったと後世に知らせる事は有益だ。幕末から明治に薩長土肥、京都、芸州(広島)等の西軍が松陰の無政府的侵略主義に染まり、天皇が帝国主義を狂信し大規模な内乱・侵略罪を働いた事を、東京以西の西南地方が美化しだす時、そこには覇道、即ち権謀術数主義による暴政の絶対化が必ず含まれている。これらの西南地域の民族は、弥生時代以後にユーラシア大陸の中国江南地方界隈や朝鮮半島から移民してきた弥生人と言われる人々の末裔が主だが、この人々は元来が日本侵略によって生存圏を得てきた歴史を罪悪視しておらず、究極のところ暴力による野蛮の勝利を経験的に信じている。いいかえれば、西南地方から東京地方の人々は一般に利己を利他より、善悪より強弱を重要と考え、縄文時代以前の日本における、およそ身分平等な原始共産制を経験していないので、社会的公平や正義に基づく徳政が存在する事や、その功利性、福祉性を信じていないのだ。安倍晋三の様に、東京生育の長州閥を自称する人物が独裁政、社会的不公平や違憲行政を拡大する暴政や悪政と呼べる不正の数々を行っていても、それを疑問視しないどころか協賛する西南地方の民衆は、弥生民族としては天皇を教祖の神輿とした、弥生人達の長による絶対政治が行われれば、その内容より形式に満足するのだと理解できる。特に、西日本の右派の中で、尊皇主義者慶喜の天皇への禅譲を徳川政府の自己敗北と解釈し内乱を起こした明治時代を理想視する薩長土肥らの自己過信によって、この天皇を玉として担いだ長州閥独裁原理主義は極端になっている。西日本の民族にとって、内乱・侵略罪を起こした明治時代は、日本征服あるいはアジア侵略の成功体験と解釈されてしまっている上に、それを単なる利己的・害他的な植民地主義のなせる、欧米の傀儡としての内乱だったとか、アジア同胞を裏切った我執の誤謬だったとか、神道原理主義による狂騒的な混乱だったと反省する理由は、西南地方の人々にとっては存在しない。東京都にとって、今日の天皇制を正当化する事は、都民の権威を強化すると想定されており、この薩長史観に沿った司馬遼太郎の小説に殆どを拠ったNHK大河ドラマの歴史解釈の構造をみればわかるよう、西軍正当化と徳川時代における新渡戸的武士道の否定、東京の成立は一体化している。九州地方大分県から江戸・東京へ出てきた福沢諭吉が薩長幕府たる明治政権の成立後に、『脱亜論』で欧米崇拝と中朝蔑視を述べた事は、薩長藩閥の残滓たる安倍独裁を支持する右翼の中でいまだに生きている。しかもこの明治イデオロギーは、CIA諜報だった岸信介の孫としての安倍の従米的意図との協働で、沖縄への負担をはじめとした在日米軍の脱法的間接統治状態の維持強化や、安倍の生育した東京を除き東北・東日本一般へのTPP押しつけでの農業冷遇、更に武士道に基づいて徳川擁護に回った会津を主とした福島県で安倍が検査を怠らせた結果起きた原発事故からの復興の無視と対比的な安倍の生育地東京での賄賂五輪といった権力濫用をもたらしている。端的にいうと、安倍晋三という人物は、同じく長州閥を気取っていた菅直人と同様、山口県の毛利が西軍の大将だった戦国時代以来の、戦国の最終勝利者たる徳川統治下の社会への復讐心、幕末から明治にかけての侵略・内乱罪の暴政正当化、そして戦中戦後に岸以来の対米追従による自民党内外での長州閥独裁権力の維持、またそれらの根底にある吉田松陰『幽囚録』で示されているアジア侵略による植民地主義、これらの意志傾向をもつ長州閥原理主義者なのであるということができる。なぜこの人がそれほど絶対的な独裁権力欲にこだわるかといえば、この長州閥原理主義を正義と混同しているからである。社会をよりよくする為の政治とか、政治学的な知恵に基づいた行政という考えは、安倍という人の中ではかけらもない。それ故に違憲行政を平気で行うし、立法の長と自称して恥じず、反長州閥的な国民を徹底的に冷遇し、独裁権力を妨げる追従者すら冤罪にかけて罪とも思わないのである。一言でいうと、幼稚な上に狂信的なサイコパスなのだろう。安倍と麻生は、一度政権から転落し、絶対的独裁者になり続ける事でしか、祖先崇拝を満足させる自己血統崇拝の自尊心を、それは自称名門の虚栄心なわけだが、保つ方法はないと考えたのだろう。しかし、問題はこの狭量な祖先崇拝を通じた自己愛しか目的のない精神病質を首相に仕立てている日本国民の一定数であって、それらの人々は消極的な理由で自民党という多数派政党を支持しているが、実際には明治寡頭政の美化と当時以来の犠牲の隠蔽という西日本人の利己心と悪意ある弥生民族主義者の右翼に欺かれているが、それに悟って自己修正するほどの知力も公徳に関する意思もない。父たる裕仁の敗戦がトラウマの明仁は起こりうる侵略戦争可能な安倍新安保法制下での戦争、または戦争憲法下での戦争責任逃れの為か、違憲立法を命じて、天皇が政府以上の独裁権力をもつ真の独裁者であると示してしまった。それは明仁が宮内庁経由で鳩山政権下で内閣の命令に背き、当時の民主党内の小沢一郎の国事行為解釈に苦言を呈するばかりか、宮内記者会経由で小沢を冤罪にかけた時点で、多かれ少なかれ見え隠れしていた事だが。結局、平成衆愚は天皇明仁から安倍内閣の全員、また自民党から右翼まで一貫して、長州閥原理主義に洗脳された、勇気や政治理解のない集団だった。大阪等の大都市に北朝鮮スパイがスリーパーセルとして潜在しているという確証のない流言をテレビ番組でばらまきつつ安倍独裁に媚びを売る発言で売名する東大閥の御用学者とか、安倍昭恵夫人と親密になる事でネットメディア番組で対立政党の党首を私的かつ無礼な質問で公に侮辱して右翼の下卑た歓心を買い売名する慶応卒の御用学者とか、或いはもっと酷いもので共謀罪において多少の冤罪も仕方ないといいながら安倍独裁にテレビ番組で媚びを売る大阪出身の人気お笑い芸人とか、こういった南蛮人或いは電波芸者は単に独裁者へのすり寄りを売名の道具にしているというほかないが、日帝下での狂ったような独裁政礼賛の結果、亡国致命傷の原因になったのと同様の連中が、衆愚の無思考や群衆化したがる不安脳の結束的狂信を更に煽る、これらの学歴や経歴をたねに保身と売名を図るべく徹底的に政権称揚していた衆愚扇動者だったのを記録しておく。
今後、社民党が与党になる時まで、国政の迷走は続き、衆愚は安倍独裁下での長州閥原理主義がもたらす不幸な格差社会と天皇制・官僚制の腐敗にまきこまれていく。だが労働者階級は無教養や、政治学的無知によって無思考に陥り、御用学者やテレビ芸人といった連中を通じ、この傾向を東京政府権威化の道具とする都内スポンサーに牛耳られた都内マスメディアからの扇動もあって、安倍の導入する移民と進む非正規労働者への置き換えや人件費削減の為の低賃金化の元で競合する。特に、ゆとり世代といわれる、削減され簡易化された義務・高等教育を受けた20代~10代後半の人々は学業成績が国際比較及び他の世代との比較で低下しており、媒体偏見に対する批判力が弱く洗脳され易い上に、大多数が2chまとめサイトを通じた匿名ネット右翼暴徒を仲間と見なし共感しており、世界の政治体制に無知である上に、実質的には軍事占領された属国だが単純に世界一の先進国と思っているアメリカ追従を理想視している。この為、自己の能力を過信する人々にあってはビル・ゲイツやウォーレン・バフェット等の億万長者やドナルド・トランプを頂点とする拝金が、自己の能力を卑下する人々にあっては無職やニートを自尊心の為に差別する為の同調集団としての労働が、又これらのアメリカ追従的人生観を満足させる為の自民党閥及び安倍独裁の狂信を通じた愛国主義が、ゆとり世代の信仰におきかわっている。そのうえ彼らは長州閥原理主義や薩長土の征韓論を通じ、またネット右翼を同類とみなして、明治寡頭政からの侵略被害を受けた中国や韓国、北朝鮮といったアジア諸国を、差別対象にしている為、この愛国主義を強化する民族主義や人種差別が当然だと考えている。敢えて不幸を増産する存在とみれば、これらのゆとり世代の人々の大多数は若害である。しかし日本はこれらの必然的な革新に対して反動的な存在の存在如何に関わらず、少なくとも安倍独裁や自民党閥が解体されたり、その明治主義の本体ともいえる天皇制の瓦解などがない限り、やはり急激に衰退していくであろうし、ピケティがいうようその日本滅亡の傾向は既に決定的なところまで進んでしまっている。仮に、安倍自民が移民によって欧米の模倣を図っても、右傾したゆとり若害との間で、低学力地帯としておもに東京以西の西南地方で民族排斥の憎悪や、暴力団の多い九州界隈では暴徒による内紛がくりかえされるであろう。アメリカは世界最悪の相対貧困国として反面教師だが、日本の衆愚には相対貧困の概念が理解できず、途上国最低級の貧困と、日本人貧困層を比較し自国贔屓の虚栄に耽る事で米国風の資本主義を妄信し、資産の二極化を合理化しようとし続けるであろう。
では日本国の近未来はすべてが絶望的なのか。対策といえるのは、地域連合や、県の単位に連邦的権限を最大限に復権させる事である。我々でいう常陸国の単位で、或いはそれより小さな市町村の単位で、賢明な体制を実現していく事だ。日本国という明治イデオロギーの単位を否定する事はその第一歩として、必須だ。自由人主義は政府の最小化をはかり、調整的正義を無視する点で、決して理想的ではない。だからおもに資本家が、この考えに基づいて遊牧的に租税回避地へ資産を移動させたり、自ら移住したりして政府から逃れようとする事は必然だとしても、現実的に可能なのはサンディ・スプリングス市の様な政治業務の民営化である。それと同時に、地球規模でいう国連や、国の単位から、この自由人特区に何らかの徴税が図られていきやすいのが当然ともいえるから、結局、ある地域住民の中央値的富裕さが、その周囲と比べ大きく富裕な時により配分的で投資・自由人的、逆に周囲と比べ貧困な時に調整的で生保・労働的になるのであって、これらが生じるわけは、おもに地域住民の一般的な金融literacyである。北茨城市や、茨城県がいかに年少或いは時代的に早期からの金融教育を重視するべきかがこれで理解できる。縮小していく日本経済下で生保や労働を保つのは容易ではなく、何らかの資本収益がその財源となるだろうことは疑いようがないからである。尤も、仮に超拝金的都市が生まれても、我々はそこを理想郷と見なす事は恐らくないだろう。人類の知能には生まれつき何らかの偏差や特性が生じるし、ほぼ全構成員が金儲けの巧い人でできている社会より、単に多様性の高い社会の方が、行動や考えの偶有的な組み合わせによって発展的になりうるだろうからだ。調和的正義が十分に実現された社会とは、構成員の何らかの特徴について中央値をとったとしても、認容される個性の幅の裾野が極めて広いままで成立している世間であって、単に資本家らが租税回避的な利己心の為に集密しただけの地域ではないのであろう。今日の茨城県単位で、或いは最低でも北茨城市の単位で、国政における長州閥原理主義者達や、自民党閥からの影響を最小化するか、緩和しながら、拝金や労働に偏らない社民化をはかる事、しかも官僚の天下りなど行政との癒着を避ける民営化を前提に福祉の向上をはかり、県民市民に対しては金融教育の早期実践を行い、投資収益率の高い生業へ自由人を集中させていく事が、維持できる社会として日本亡国から常陸国を救済する道のりである。現状の我々の国の致死的な欠陥は、安倍独裁下では特に、貧困層への冷遇や、皇族閥の優遇といった資産格差に基づく身分差別によって、国民一般の生存権が蹂躙されている事だ。生活保護の権利は腐敗した行政によって完全になおざりにされ、それどころか、変死扱いを煽る警察とつるんで多くの貧民が国家単位で集団自殺に追い詰められている。中国大陸からの移民としての天皇は飛鳥時代以来の傲慢によって、国民を納税奴隷と見なしこの状態を変える気はないどころか、自らの子孫をのみ人種的に優遇する。原発を田園部に設置し、そこで暮らす我々の生命と財産を害し、皇族閥の暮らす都市圏や、商業圏から退けて恥じないのも、神道邪教祖としての天皇の中華思想の為であり、或いは金満的商人の害他的で貪婪な我執の為であり、金権政治に陥った皇族閥と自民党閥の癒着の為である。これらの県外勢力の影響を、茨城県民は自らの安全を守る為の強い独立心と誇りによって完全に排除しなければならない。東海第二原発を茨城県内に立地させ再稼働までさせたがっている日本原電は茨城県の会社ではないし、その資本は全国の電力会社の物に過ぎず茨城人のものではない。即ち、これらの県外人達は、茨城県民の命を犠牲に、自分のカネを儲けようと言うだけなのである。この事は、自らの子孫の地位と権力の永続的維持にしか目的を持たない天皇家についても同様だと断定できる。
また以下にその理由を詳しく説明するが、非正規雇用法の撤廃あるいは改善によって、非正規労働者の方が正規労働者より給与が高くなるよう企業に義務付ける事が第一に必要な施策だろう。なぜなら、非正規雇用法を通した小泉政権と、その後裔としてさらに金融緩和を非正規雇用法撤廃より先に行い中流没落を招いた安倍政権を主とした自民党が、平成の日本経済及びその百年の計たる国政に深刻な失敗を招いた第一原因である。一言でいうと自民政治が失敗しているわけだが、その理由の最たるものが、アメリカかぶれの竹中平蔵が新自由主義を小泉・安倍両政権下で日本に導入しようとし、先進国でアメリカに次ぐ相対貧困大国にしてしまった上、社民的福祉化も社会主義への偏見や、麻生・安倍という皇族閥の既得権益維持の為の保守信仰、または安倍の親米的保身によって怠ったので、国民全体の低所得化によって人口減少による国家衰退が決定的になった事だ。竹中はパソナグループによる人材派遣業で政商としてしこたま儲けたが、途中で自らの政策的失敗に気づき北欧を称賛しだすころまでおこぼれ理論を本気で信じていたのである。
2018年段階で安倍独裁とその支持者達は日本の拝金化を極端に進めているが、それは経済ではない政治の調整的役割を理解していないからであり、いいかえれば彼らは調整的正義を認知しない衆愚だといえる。拝金は社会的不公平を拡大し、多数を占める人々の相対貧困化を進め、低教育・低教養の蔓延は階級移動を妨げるので、民衆一般に客観的幸福度が低くなる。安倍政権下で日本国内衆愚中に結束主義的愛国心の強調が見られるのは、批判的思考の欠如からくる無思考と生得的に少ないセトロニン・トランスポーター数による不安脳の故に自己目的な群衆化の確証偏見を強化してしまうと同時に、北朝鮮・韓国・中国の軍事的脅威を強調する安倍の仮想敵扇動による独裁権力強化の作戦から更に不安脳を煽られているからであろう。つまり、平成の労働者達が安倍独裁下での拝金的な格差拡大政策が彼らに不利で彼らの信じる労働主義と対立しているのに肯定するのは、およそ、独裁者を結束的に狂信する事が最も複雑な社会状況を考えたり、社会批評的に解析しなくて済むからである。 平成末期はこの様な衆愚政状態だったと後世に知らせる事は有益だ。幕末から明治に薩長土肥、京都、芸州(広島)等の西軍が松陰の無政府的侵略主義に染まり、天皇が帝国主義を狂信し大規模な内乱・侵略罪を働いた事を、東京以西の西南地方が美化しだす時、そこには覇道、即ち権謀術数主義による暴政の絶対化が必ず含まれている。これらの西南地域の民族は、弥生時代以後にユーラシア大陸の中国江南地方界隈や朝鮮半島から移民してきた弥生人と言われる人々の末裔が主だが、この人々は元来が日本侵略によって生存圏を得てきた歴史を罪悪視しておらず、究極のところ暴力による野蛮の勝利を経験的に信じている。いいかえれば、西南地方から東京地方の人々は一般に利己を利他より、善悪より強弱を重要と考え、縄文時代以前の日本における、およそ身分平等な原始共産制を経験していないので、社会的公平や正義に基づく徳政が存在する事や、その功利性、福祉性を信じていないのだ。安倍晋三の様に、東京生育の長州閥を自称する人物が独裁政、社会的不公平や違憲行政を拡大する暴政や悪政と呼べる不正の数々を行っていても、それを疑問視しないどころか協賛する西南地方の民衆は、弥生民族としては天皇を教祖の神輿とした、弥生人達の長による絶対政治が行われれば、その内容より形式に満足するのだと理解できる。特に、西日本の右派の中で、尊皇主義者慶喜の天皇への禅譲を徳川政府の自己敗北と解釈し内乱を起こした明治時代を理想視する薩長土肥らの自己過信によって、この天皇を玉として担いだ長州閥独裁原理主義は極端になっている。西日本の民族にとって、内乱・侵略罪を起こした明治時代は、日本征服あるいはアジア侵略の成功体験と解釈されてしまっている上に、それを単なる利己的・害他的な植民地主義のなせる、欧米の傀儡としての内乱だったとか、アジア同胞を裏切った我執の誤謬だったとか、神道原理主義による狂騒的な混乱だったと反省する理由は、西南地方の人々にとっては存在しない。東京都にとって、今日の天皇制を正当化する事は、都民の権威を強化すると想定されており、この薩長史観に沿った司馬遼太郎の小説に殆どを拠ったNHK大河ドラマの歴史解釈の構造をみればわかるよう、西軍正当化と徳川時代における新渡戸的武士道の否定、東京の成立は一体化している。九州地方大分県から江戸・東京へ出てきた福沢諭吉が薩長幕府たる明治政権の成立後に、『脱亜論』で欧米崇拝と中朝蔑視を述べた事は、薩長藩閥の残滓たる安倍独裁を支持する右翼の中でいまだに生きている。しかもこの明治イデオロギーは、CIA諜報だった岸信介の孫としての安倍の従米的意図との協働で、沖縄への負担をはじめとした在日米軍の脱法的間接統治状態の維持強化や、安倍の生育した東京を除き東北・東日本一般へのTPP押しつけでの農業冷遇、更に武士道に基づいて徳川擁護に回った会津を主とした福島県で安倍が検査を怠らせた結果起きた原発事故からの復興の無視と対比的な安倍の生育地東京での賄賂五輪といった権力濫用をもたらしている。端的にいうと、安倍晋三という人物は、同じく長州閥を気取っていた菅直人と同様、山口県の毛利が西軍の大将だった戦国時代以来の、戦国の最終勝利者たる徳川統治下の社会への復讐心、幕末から明治にかけての侵略・内乱罪の暴政正当化、そして戦中戦後に岸以来の対米追従による自民党内外での長州閥独裁権力の維持、またそれらの根底にある吉田松陰『幽囚録』で示されているアジア侵略による植民地主義、これらの意志傾向をもつ長州閥原理主義者なのであるということができる。なぜこの人がそれほど絶対的な独裁権力欲にこだわるかといえば、この長州閥原理主義を正義と混同しているからである。社会をよりよくする為の政治とか、政治学的な知恵に基づいた行政という考えは、安倍という人の中ではかけらもない。それ故に違憲行政を平気で行うし、立法の長と自称して恥じず、反長州閥的な国民を徹底的に冷遇し、独裁権力を妨げる追従者すら冤罪にかけて罪とも思わないのである。一言でいうと、幼稚な上に狂信的なサイコパスなのだろう。安倍と麻生は、一度政権から転落し、絶対的独裁者になり続ける事でしか、祖先崇拝を満足させる自己血統崇拝の自尊心を、それは自称名門の虚栄心なわけだが、保つ方法はないと考えたのだろう。しかし、問題はこの狭量な祖先崇拝を通じた自己愛しか目的のない精神病質を首相に仕立てている日本国民の一定数であって、それらの人々は消極的な理由で自民党という多数派政党を支持しているが、実際には明治寡頭政の美化と当時以来の犠牲の隠蔽という西日本人の利己心と悪意ある弥生民族主義者の右翼に欺かれているが、それに悟って自己修正するほどの知力も公徳に関する意思もない。父たる裕仁の敗戦がトラウマの明仁は起こりうる侵略戦争可能な安倍新安保法制下での戦争、または戦争憲法下での戦争責任逃れの為か、違憲立法を命じて、天皇が政府以上の独裁権力をもつ真の独裁者であると示してしまった。それは明仁が宮内庁経由で鳩山政権下で内閣の命令に背き、当時の民主党内の小沢一郎の国事行為解釈に苦言を呈するばかりか、宮内記者会経由で小沢を冤罪にかけた時点で、多かれ少なかれ見え隠れしていた事だが。結局、平成衆愚は天皇明仁から安倍内閣の全員、また自民党から右翼まで一貫して、長州閥原理主義に洗脳された、勇気や政治理解のない集団だった。大阪等の大都市に北朝鮮スパイがスリーパーセルとして潜在しているという確証のない流言をテレビ番組でばらまきつつ安倍独裁に媚びを売る発言で売名する東大閥の御用学者とか、安倍昭恵夫人と親密になる事でネットメディア番組で対立政党の党首を私的かつ無礼な質問で公に侮辱して右翼の下卑た歓心を買い売名する慶応卒の御用学者とか、或いはもっと酷いもので共謀罪において多少の冤罪も仕方ないといいながら安倍独裁にテレビ番組で媚びを売る大阪出身の人気お笑い芸人とか、こういった南蛮人或いは電波芸者は単に独裁者へのすり寄りを売名の道具にしているというほかないが、日帝下での狂ったような独裁政礼賛の結果、亡国致命傷の原因になったのと同様の連中が、衆愚の無思考や群衆化したがる不安脳の結束的狂信を更に煽る、これらの学歴や経歴をたねに保身と売名を図るべく徹底的に政権称揚していた衆愚扇動者だったのを記録しておく。
今後、社民党が与党になる時まで、国政の迷走は続き、衆愚は安倍独裁下での長州閥原理主義がもたらす不幸な格差社会と天皇制・官僚制の腐敗にまきこまれていく。だが労働者階級は無教養や、政治学的無知によって無思考に陥り、御用学者やテレビ芸人といった連中を通じ、この傾向を東京政府権威化の道具とする都内スポンサーに牛耳られた都内マスメディアからの扇動もあって、安倍の導入する移民と進む非正規労働者への置き換えや人件費削減の為の低賃金化の元で競合する。特に、ゆとり世代といわれる、削減され簡易化された義務・高等教育を受けた20代~10代後半の人々は学業成績が国際比較及び他の世代との比較で低下しており、媒体偏見に対する批判力が弱く洗脳され易い上に、大多数が2chまとめサイトを通じた匿名ネット右翼暴徒を仲間と見なし共感しており、世界の政治体制に無知である上に、実質的には軍事占領された属国だが単純に世界一の先進国と思っているアメリカ追従を理想視している。この為、自己の能力を過信する人々にあってはビル・ゲイツやウォーレン・バフェット等の億万長者やドナルド・トランプを頂点とする拝金が、自己の能力を卑下する人々にあっては無職やニートを自尊心の為に差別する為の同調集団としての労働が、又これらのアメリカ追従的人生観を満足させる為の自民党閥及び安倍独裁の狂信を通じた愛国主義が、ゆとり世代の信仰におきかわっている。そのうえ彼らは長州閥原理主義や薩長土の征韓論を通じ、またネット右翼を同類とみなして、明治寡頭政からの侵略被害を受けた中国や韓国、北朝鮮といったアジア諸国を、差別対象にしている為、この愛国主義を強化する民族主義や人種差別が当然だと考えている。敢えて不幸を増産する存在とみれば、これらのゆとり世代の人々の大多数は若害である。しかし日本はこれらの必然的な革新に対して反動的な存在の存在如何に関わらず、少なくとも安倍独裁や自民党閥が解体されたり、その明治主義の本体ともいえる天皇制の瓦解などがない限り、やはり急激に衰退していくであろうし、ピケティがいうようその日本滅亡の傾向は既に決定的なところまで進んでしまっている。仮に、安倍自民が移民によって欧米の模倣を図っても、右傾したゆとり若害との間で、低学力地帯としておもに東京以西の西南地方で民族排斥の憎悪や、暴力団の多い九州界隈では暴徒による内紛がくりかえされるであろう。アメリカは世界最悪の相対貧困国として反面教師だが、日本の衆愚には相対貧困の概念が理解できず、途上国最低級の貧困と、日本人貧困層を比較し自国贔屓の虚栄に耽る事で米国風の資本主義を妄信し、資産の二極化を合理化しようとし続けるであろう。
では日本国の近未来はすべてが絶望的なのか。対策といえるのは、地域連合や、県の単位に連邦的権限を最大限に復権させる事である。我々でいう常陸国の単位で、或いはそれより小さな市町村の単位で、賢明な体制を実現していく事だ。日本国という明治イデオロギーの単位を否定する事はその第一歩として、必須だ。自由人主義は政府の最小化をはかり、調整的正義を無視する点で、決して理想的ではない。だからおもに資本家が、この考えに基づいて遊牧的に租税回避地へ資産を移動させたり、自ら移住したりして政府から逃れようとする事は必然だとしても、現実的に可能なのはサンディ・スプリングス市の様な政治業務の民営化である。それと同時に、地球規模でいう国連や、国の単位から、この自由人特区に何らかの徴税が図られていきやすいのが当然ともいえるから、結局、ある地域住民の中央値的富裕さが、その周囲と比べ大きく富裕な時により配分的で投資・自由人的、逆に周囲と比べ貧困な時に調整的で生保・労働的になるのであって、これらが生じるわけは、おもに地域住民の一般的な金融literacyである。北茨城市や、茨城県がいかに年少或いは時代的に早期からの金融教育を重視するべきかがこれで理解できる。縮小していく日本経済下で生保や労働を保つのは容易ではなく、何らかの資本収益がその財源となるだろうことは疑いようがないからである。尤も、仮に超拝金的都市が生まれても、我々はそこを理想郷と見なす事は恐らくないだろう。人類の知能には生まれつき何らかの偏差や特性が生じるし、ほぼ全構成員が金儲けの巧い人でできている社会より、単に多様性の高い社会の方が、行動や考えの偶有的な組み合わせによって発展的になりうるだろうからだ。調和的正義が十分に実現された社会とは、構成員の何らかの特徴について中央値をとったとしても、認容される個性の幅の裾野が極めて広いままで成立している世間であって、単に資本家らが租税回避的な利己心の為に集密しただけの地域ではないのであろう。今日の茨城県単位で、或いは最低でも北茨城市の単位で、国政における長州閥原理主義者達や、自民党閥からの影響を最小化するか、緩和しながら、拝金や労働に偏らない社民化をはかる事、しかも官僚の天下りなど行政との癒着を避ける民営化を前提に福祉の向上をはかり、県民市民に対しては金融教育の早期実践を行い、投資収益率の高い生業へ自由人を集中させていく事が、維持できる社会として日本亡国から常陸国を救済する道のりである。現状の我々の国の致死的な欠陥は、安倍独裁下では特に、貧困層への冷遇や、皇族閥の優遇といった資産格差に基づく身分差別によって、国民一般の生存権が蹂躙されている事だ。生活保護の権利は腐敗した行政によって完全になおざりにされ、それどころか、変死扱いを煽る警察とつるんで多くの貧民が国家単位で集団自殺に追い詰められている。中国大陸からの移民としての天皇は飛鳥時代以来の傲慢によって、国民を納税奴隷と見なしこの状態を変える気はないどころか、自らの子孫をのみ人種的に優遇する。原発を田園部に設置し、そこで暮らす我々の生命と財産を害し、皇族閥の暮らす都市圏や、商業圏から退けて恥じないのも、神道邪教祖としての天皇の中華思想の為であり、或いは金満的商人の害他的で貪婪な我執の為であり、金権政治に陥った皇族閥と自民党閥の癒着の為である。これらの県外勢力の影響を、茨城県民は自らの安全を守る為の強い独立心と誇りによって完全に排除しなければならない。東海第二原発を茨城県内に立地させ再稼働までさせたがっている日本原電は茨城県の会社ではないし、その資本は全国の電力会社の物に過ぎず茨城人のものではない。即ち、これらの県外人達は、茨城県民の命を犠牲に、自分のカネを儲けようと言うだけなのである。この事は、自らの子孫の地位と権力の永続的維持にしか目的を持たない天皇家についても同様だと断定できる。
2018年2月19日
県北の公共施設共同利用案
北茨城市長は新高萩市長と早期に直接会談し、地方自治はそれぞれの自治体の市町村民の為に、お互いにできるかぎり協力して行う事を確認するべきである。また、県内で最大の人口流出度である日立市と、高萩・北茨城の両市は通勤圏としても、多賀郡としての古代からの歴史伝統上も、日立関連の産業上も密接な関係にある為、将来的には日立地区という広域自治体に合併される事を見越して、日立市やいわき市とも共同で連携してそれぞれの保有する文化的・経済的資源の共有をはかるよう提案する。たとえば五浦美術館での展覧会、市立図書館や雨情記念館、商工会館、ふれあいセンターなど市の公共空間でのイベント、とおりゃんせ温泉の共通パス、工業団地や市営住宅の相互提供と共同出資による開発、或いは駅前の再開発にあたっての日立市街地・高萩市街地・北茨城市街地にわたる共通のコンセプトによる共同設計などを提案する。図書館の利用券やバス等は相互利用できるよう共通規格化する(将来的には県央、県南、その他の県外でも利用できるように計画する)。また、市役所での住民票移動等の手続きも県北3市+いわき市間でできるだけ電子化し、簡略化・民営化するようにするべきである。