2014年10月24日

茨城学

 これまで当ブログ上で分析済みのよう、茨城県が観光地化していないという既存条件は寧ろ当地域における国民生活上の幸福度をあげる効果を持ち、人口当たり研究所数全国1位、農業生産高2位、所得首都圏2位、住宅敷地面積1位、耕地率1位、工場立地面積1位、小中学生体力1位、学力首都圏2位(平成24年~平成25年)等々の優れた美質、わが県民の優等生ぶりを外来者らから損なわれない為の必要条件ですらある。極悪人の田中章雄と矢野新一や退廃しきった極悪東京の極悪マスコミは彼ら極悪人が共有地の悲劇のゆえひたすら汚すために行きたがる観光地を魅力と言いつつ、長年300万人の日本国民・茨城県民を誹謗中傷し続けてきた悪業の底なしの地獄人であるのだが、なんといってもそのおもとして観光向けの魅力度調査とやらで上位の地域は幸福度が低い。特に、観光地は全般的に所得水準が低く、観光収入という自然または既存の遺産への集客で何とか経済をとりもっているのが現状である。いいかえれば、経済面での失敗、経済成長率の低さの原因になるのが極悪人矢野新一と田中章雄が褒めあげる観光用の魅力度とやらなのである。なんという悪業の徒か。悪魔は地獄に行き着くであろう。その証拠に、茨城県の経済成長率は、悪魔の矢野と田中が誹謗を始めてから首都圏で1位である。よきところをあしきところといい、あしきところをよきところとぬかす悪口悪魔の色眼鏡にかかれば、最も活気のある地域が最も魅力がないということなのだ。それなら誰一人いない太陽系の果てに単独で、このわが県の名誉に長年重犯罪を犯し続けた極悪人矢野新一と田中章雄はたった二人で、移住すればよさそうなものである。極悪人矢野と田中によるこれら凄まじい犯罪、即ち甚大で理由のない地方侮辱による弱い地方虐めの極悪風評被害の全現象を長年分析してきた筆者が断言するが、茨城県は高徳すぎる故に低俗な東京マスコミ並びに愚民そのものの体たらくである日本衆愚から敬遠あるいは無視されている、なぜなら豚に真珠というわけで、それは寧ろわが清廉の士が偉大な孤高であるのに類しまこと望ましい事なのだ。水戸学の土壌は君子式に謙遜を尊んできた。この文化慣習は我々を低俗化から守り続けている。当ブログ上のこの件についての分析は常に同じ結論である。要は衆愚を退けよという事で、観光地化いちじるしい諸地域とは真逆の道を行くべし、というわけなのだ。そして常々ここでも議題になってきた事だが、観光用の魅力度についての中庸性についてはこの際、捨てる必要があるかもしれない。なぜなら、もしそれが悪徳であるならば、というより現実に域内国民の幸福度を下げ大いに不幸にする限り非常な悪徳なのだが、観光集客主義は否定されねばならない愚行であるから、偉大な地域であればあるほど、この逆に生活満足主義をたどりその分、当の我らの県のよう外部の悪業地域から誹謗をされるという事になる。悪名高き長州藩の安倍晋三が憎民の覇道主義者なら、我らの烈公は愛民の徳治主義者ということだ。しかし聖書にあるよう「義の故に迫害される者は幸いなり」なのだから、救済され天国と化するのはわが地域であり、わが茨城県であると私は高らかに予言する。重要なのは民の幸福であって、おもとして観光用の魅力度という外聞では決してないし、その巧言令色な化粧や有名無実性がないが故に、かえって邪悪な日本民族という腐敗した小人社会からいくら中傷されようと、さらに志操堅固な茨城県の君子らしさ、その謙遜の美徳に伴った最高の貴族性をゆくさきまでも全人類史かつ万世の世界史へ誇示することとなろうから。
 水都、水戸府、水戸県、ひたち都、ひたち府、ひたち県これらのどれかに地域名をきりかえることで、既存の有名性を利用する事とか、今日づけの茨城新聞上の茨城県知事の分析にあるよう、一点豪華主義の超有名観光地を域内に作り上げる事、例えば茨城ディズニーランドや茨城五輪の類を誘致する事などはなるほど、厳密な効果があり、凡俗の諸地域ならこぞってそうするのだろう。東京五輪が東京大震災で開催不能になった場合、茨城五輪として開催地を移動させるという事も、彼らが君子でないなら早速考え誘致活動をはじめるだろう。だが寧ろわが県は、無名を尊びなにも魅力がないと思われる事を望む。なぜならそれが、すべてを考慮して最善なのだから、我らの持った謙遜という最高徳こそが最高の幸福を得るはずなのだからだ。結論をいおう。有名無実、無名有実、名実中庸の3つがあったとき、茨城県が現にある無名有実が最高徳であり、最善というのが孔子の教えであり、私もそう確信する。なぜならその無名は、俗物のあずかり知らぬところという高貴な実から生じているからだ。