2014年3月17日

新武家論

 水戸侍町構想は、少なくとも競合相手になる可能性のある山口県、鹿児島県、高知県、佐賀県(薩長土肥)、神奈川県鎌倉市(鎌倉幕府)、京都府京都市(室町幕府)、福島県会津市、栃木県日光市(江戸村)、石川県金沢市(加賀百万石の城下町)、和歌山県和歌山市(紀州家の城下町)、愛知県名古屋市(尾張家の城下町)、小江戸とされる埼玉県川越市、栃木県栃木市、千葉県香取市、千葉県夷隅郡大多喜町神奈川県厚木市、静岡県磐田市掛塚、滋賀県彦根市、また宮城県仙台市(伊達氏)や秋田県(佐竹氏)、岩手県平泉(奥州藤原氏)等の武家遺産群を視察し、単なる観光業をふくめた、経済的町興しのための世界都市構造をねりあげるべきである。これらの都市の武士的遺産の要素から本質を抽出し、既存の水戸周囲の武家遺産と調和させていくことが次善である。
 これとは別に、新渡戸『武士道』の道徳教材への適用には哲学というものが時代適合性を目的としたいとなみであるかぎり、考えなおすことそのものへの教育が優先されるべきといえる。すくなくとも、英米においては自然科学と社会科学という追試可能な実証科学分野のみが学習可能とかんがえられており、仏独においてこころみられているとされる哲学教育はみられない。カントがいったよう、「哲学とは哲学史の学習のみが可能」であって、追試しえない。哲学はかんがえること自体なので、水戸学がそうだった様、ある思想体系をみずからの作文や演説、対話によって伝達していくこころみそのものだ。つまり、実際に倫理水準をたかめたければ、すでに体系化された法律教育すなわち法学か、作文によってある倫理的命題の判断を叙述させそれを議論することの方が有効になる。これとは逆に、過去の倫理命題をおしえこむ、という態度は、新時代の条件へ直接適用できないものがあるかぎり適応性をよわめる可能性がたかく、失敗した教育であるからさけられるべきとなる。