北茨城市役所が鳴らしている昼間の鐘(雨情童謡のメロディ)は、夜勤の人や夜型の人にとって昼間の安眠を乱されるのだから一種の公害にあたるのではないだろうか。試みが行われたはじめは気づかなかったが。以前から昼12時には消防署がサイレンを鳴らしていたけど、震災を期に設置された市役所の災害用拡声器で、新たに午後6時頃に童謡が流される様になった。この点で、別の方法で通電を確かめるのが次善ではないか。尤も、西洋などでもこの種の公共の鐘の音というのは伝統的にあるに違いないけど、昼間中心主義という考え方は既に遺伝子レベルで夜型の人がいるのが分かっている以上、時代遅れと思われる。
また、そもそも音割れがして公共放送の内容が聞こえないことが多いから、同時に市のホームページのトップに、分かりやすい場所で同放送内容を文章でも記述しておくべきと思う。且つ、音割れがする拡声器そのものは災害時にも機能を果たさないのではないだろうか? きちんと声が聞きとれるかを各地点で役人は第三者と立ち会って確かめるべきだ。
2019年6月25日
2019年6月18日
北茨城市立大学案
北茨城市に必要なのは大学だと思う。公設民営大学、又は公立大学を作るのが穏当ではないか。なぜ日本全体の少子化の中でそう思うかだが、寧ろ少子化だからこそ、若い世代を呼び寄せる環境づくりが必要といえるからだ。
自分が経験した限り、大学が集中している都内は、学生にとって望ましい環境では全然なかった。雑多な情報が多すぎ学業に集中できないのはいうまでもなく、犯罪率などの風紀も大変よくない。というか東京都が日本で一番悪い方に属する。そもそもお金の面でも物価地価が高すぎるので、わざわざ都内で勉学しようとするのは自分から地獄に入って行くみたいなものだ。
それに比べ、北茨城市はどうだろう? 自分が0歳からくらしている経験則あるいは気候図などの知識では、ここは自然環境面ではほぼ理想的といえる。今更いうまでもないが、海・山・川・湖などに囲まれ、小都市もあって、まあ欠けているところがない。一言でいえば綺麗な自然で、夏は涼しいし冬も暖かく、春は穏やかで秋も爽やかである。他県なり市外と全然違うところとして、梅雨なんてのも海から山へ風が吹いて常に湿気払いをしているせいと思われるがさして湿度があがらず、とても過ごし易いばかりかどっちかといえば心地よいくらいで、太平洋側で普段は乾いているからじめじめしていないし、豪雪地帯では全然ないため雪も化粧みたいにすぐ融けて行くから単に美しいばかりで除雪に困る筈もない。地価も物価もさほど高くないのでエンゲル係数(食費の負担率)も低いだろうし、いわゆる商業地がそこまで大きくないから学生を誘惑する場所も基本的にない。学業に集中し易いというのは自分自身が生活した限り絶対に間違いない。勿論、都内にくらしたのと比較しても遥かに北茨城の方が学業する為に優れた環境といえる。
ではなぜこちらに大学がなくて都内に大学が集中しているのか? 答えは日本人全般が「群れる」習性が激しくあって、原因は脳内セロトニン・トランスポーターの遺伝的な少なさだと思われるのだがとかく合理性を無視し、都心に突っ込んで行きやすい。が海外の大学をみれば殆どの名門大学は、筑波大学くらい、もしくはもう少し田舎の環境にあるのが確認できる。海外の一流大学と、日本の大学群を比べたら、日本の方が質が低いといわれているし、実際に研究の質という意味でも、学生の質という意味でもそうなのではないか? 理由の一端は、明治政府が旧帝大なり国立大を各地の主要都市に作らせたことにも原因があると思う。学生が各地の中心的商業地に集まったらどうなるか。当然、商業地で消費して遊ぶに決まっている。だから学業をろくにしなくなったのだ。ディズニーランド行く感覚で大学を消費地、いわゆるレジャーランドにしてしまっているわけだ。特に若いうちは孔子が君子三戒でいうよう性愛に魅せられやすく、東京の性風紀は江戸時代以来最悪でもある。九鬼周造『いきの構造』式に都民はそれを誇ってさえいるから文化圏自体が他と違うのだが、少なくとも学業を完成させる方向性と、警察に逮捕されるまで集団乱倫するのは全く逆の方向性でしかないでしょう。これはいっておくけど、なぜ早慶の国際大学ランクが全然低いかというと正にこういう風紀の悪さがあるせいだ。まじめに勉学するつもりがない人達がブランド欲しさに大量流入しているが、大学の資金源になっているからろくに勉強してなかろうと完全放置されているわけです。まあ形骸化である。
ニューヨークのコロンビア大学みたいな例外はあるだろうけど、オックスブリッジみたいに田舎町の中で川辺なんか散歩しながら友人と議論や、思索や、学究に耽るというのが世界標準の理想的学問環境なのであり、いわゆる大学町というのは本来そうなっているべきなのである。もっというと、そもそもその種の大学のモデルである西洋の主要大学というのは、神学部が古典的な基礎なので、いわゆる修道士の為の組織だったわけだ。上述のよう明治以後の日帝が、近代工業を推進するべく旧帝大を作ったのとは根っこからして違っているから、日本の大学って一般に静かな環境にないのだ。無論、日本でも中にはそういうのもある。茨城でいう筑波大も確かにこの点では些か人工的ではあるが(寧ろ人工的な面で、通常の大学町にはない広大さや開放感もあるけど)、日本国内では最も世界の主要大学一般に近い類型を目指した例だけど、要は都市型大学ではない田園都市、または生活必需品は十分そろうくらいの田舎町の中に「学問に全力で集中できる環境をおもんばかって」、静穏な場をつくるのが長期的にも学際的熟慮というものだ。
少子化なので学生が集まらない、という考えは分かるが、自分がみるところ少子化は永遠に続くわけではない。この現象は日本全体の経済がうまくいっていない為の副作用で、簡単にいうと大企業と自民党が企業献金を通じ癒着しきっていて、彼らは日本全体の中流の生活状況を向上させるという目的を忘れ、小泉政権(特に竹中平蔵氏が政策ブレーンになって)以後と思うが新自由主義を導入して格差拡大路線に行ってもどってこない。いいかえれば日本全体の衰退とひきかえに、金持ちをますます金持ちにし、貧乏人をますます貧乏人にするという経済循環そのものが巡らなくなる構造を、大企業と自民党が共謀してつくっていった。当然これは少数派の利益を全体の利益に優先する判断にすぎず、いわゆる堕落した少数政治の代名詞である寡頭政治、ここでは自民党寡頭政治なわけだ。日本人の一般大衆がこの構図に最初から気づくほど賢ければ、当然、他の主要先進国同様、少子化がここまで深刻化していない。今後、否応なくこの新自由主義路線の失敗は修正されざるをえない。
投資家のジム・ロジャースがいうよう移民導入でアメリカ風の社会構造を、現安倍政権は目指している様だが、文化素(ミーム)の多様化を進める点で別に移民を入れるのが悪いと私は思わないからそれはいいとして(余りに移民コミュニティが巨大化してきたら、移民法みたいなもので、帰化していない人達の国民への害を減らす何らかの制限を加える必要は出てくると思うが)、問題は非正規雇用法が不安定な労働者ほど賃金が低い状態を放置していることである。できるだけ早く非正規雇用法を撤廃し不安定な労働者の雇用条件を安定化させるか、さもなければ不安定な非正規雇用者の方により高い賃金を与えねばならないという風に法を改善するか、どちらかだ。一言でいえば中流の最多性を復活させる必要がある。これは帰化した人達、もしくは移民そのものも含めての話だ。すなわち、大企業と自民党の癒着関係による二極化の推進が否定されるにしたがって、徐々に少子化は改善に向かい、維持できる人口動態へと戻って行くのが予想される。日本国民全般がそこまで利口ではないとしたら、少なくとも茨城県、又は北茨城市の範囲で中流の豊かさを取り戻す方へ経済政策を先進させないといけない。
総じて、上記の経過を辿って出生率は回復し、経済のしくみに導かれて過去と同等以上のくらしができる状態になり続けるだろうから、その際、市内に定着する若い世代の数が多ければ多いほどこの市の将来は明るいといっていい。学生が多いのもその一つだけど(ここでは今後、日本で必要だろう成人学習の文脈は後回しにしておく)、もっと大事なのは仕事場が市内にあることだ。しかし経済資本が集まってくる最初の原因は、私のみるかぎり文化資本の蓄積なのではないかと思う。よく学ぶ学生が沢山いたら、そこから飛び出して(スピンアウトして)独立した事業体ができるのがありうる話だ。いずれにせよ、学業は一般に低所得者を量産する方には進まない。市内の産業を高度化する方に行く筈だ。だから北茨城市立大学の様なものを構想し、行政が将来を慮って市内に若者を集める方途をとるべきだ。
私個人は私立大学の形で自分が将来作れるかなと思っていたんだけど、費用や文化の違いという面で、私立大以外にも公立の大学があった方がいい。現時点で学校の形は変容していて、ネットに講義流し、テストも時間区切ってオンラインで完結みたいになっていく流れだなと私は洞察している。費用面でも放送大学形式が最も経済合理的なのは目に見えている。だからもし私がなんか私大つくるなら、恐らくオンライン完結型になるだろうなと思うし、それはいわゆる普通の大学ではないでしょう。なので公立大学という、普通に住んで広大なキャンパスへ講義に通う形の大学もあった方がいいと思う。なぜなら学生コミュニティができ易いから。
学生時代に同じか似た志をもつ仲間ができるのはそれなりに役立つだろうし、アリストテレスがいう友情は、正にその種の広義の哲学(知恵を愛する)仲間がお互いに中庸を弁えた善い友人であれば永続するといっているわけで、旧キャンパス型大学の存在意義はそれがほぼ全てといえるのではないでしょうか。教授の人柄に触れるみたいなのとか、研究施設を借りるとかもあるでしょうけど、総じてこういうのは師事したり、研究所に入れば大学以外でもできるので。
自分が経験した限り、大学が集中している都内は、学生にとって望ましい環境では全然なかった。雑多な情報が多すぎ学業に集中できないのはいうまでもなく、犯罪率などの風紀も大変よくない。というか東京都が日本で一番悪い方に属する。そもそもお金の面でも物価地価が高すぎるので、わざわざ都内で勉学しようとするのは自分から地獄に入って行くみたいなものだ。
それに比べ、北茨城市はどうだろう? 自分が0歳からくらしている経験則あるいは気候図などの知識では、ここは自然環境面ではほぼ理想的といえる。今更いうまでもないが、海・山・川・湖などに囲まれ、小都市もあって、まあ欠けているところがない。一言でいえば綺麗な自然で、夏は涼しいし冬も暖かく、春は穏やかで秋も爽やかである。他県なり市外と全然違うところとして、梅雨なんてのも海から山へ風が吹いて常に湿気払いをしているせいと思われるがさして湿度があがらず、とても過ごし易いばかりかどっちかといえば心地よいくらいで、太平洋側で普段は乾いているからじめじめしていないし、豪雪地帯では全然ないため雪も化粧みたいにすぐ融けて行くから単に美しいばかりで除雪に困る筈もない。地価も物価もさほど高くないのでエンゲル係数(食費の負担率)も低いだろうし、いわゆる商業地がそこまで大きくないから学生を誘惑する場所も基本的にない。学業に集中し易いというのは自分自身が生活した限り絶対に間違いない。勿論、都内にくらしたのと比較しても遥かに北茨城の方が学業する為に優れた環境といえる。
ではなぜこちらに大学がなくて都内に大学が集中しているのか? 答えは日本人全般が「群れる」習性が激しくあって、原因は脳内セロトニン・トランスポーターの遺伝的な少なさだと思われるのだがとかく合理性を無視し、都心に突っ込んで行きやすい。が海外の大学をみれば殆どの名門大学は、筑波大学くらい、もしくはもう少し田舎の環境にあるのが確認できる。海外の一流大学と、日本の大学群を比べたら、日本の方が質が低いといわれているし、実際に研究の質という意味でも、学生の質という意味でもそうなのではないか? 理由の一端は、明治政府が旧帝大なり国立大を各地の主要都市に作らせたことにも原因があると思う。学生が各地の中心的商業地に集まったらどうなるか。当然、商業地で消費して遊ぶに決まっている。だから学業をろくにしなくなったのだ。ディズニーランド行く感覚で大学を消費地、いわゆるレジャーランドにしてしまっているわけだ。特に若いうちは孔子が君子三戒でいうよう性愛に魅せられやすく、東京の性風紀は江戸時代以来最悪でもある。九鬼周造『いきの構造』式に都民はそれを誇ってさえいるから文化圏自体が他と違うのだが、少なくとも学業を完成させる方向性と、警察に逮捕されるまで集団乱倫するのは全く逆の方向性でしかないでしょう。これはいっておくけど、なぜ早慶の国際大学ランクが全然低いかというと正にこういう風紀の悪さがあるせいだ。まじめに勉学するつもりがない人達がブランド欲しさに大量流入しているが、大学の資金源になっているからろくに勉強してなかろうと完全放置されているわけです。まあ形骸化である。
ニューヨークのコロンビア大学みたいな例外はあるだろうけど、オックスブリッジみたいに田舎町の中で川辺なんか散歩しながら友人と議論や、思索や、学究に耽るというのが世界標準の理想的学問環境なのであり、いわゆる大学町というのは本来そうなっているべきなのである。もっというと、そもそもその種の大学のモデルである西洋の主要大学というのは、神学部が古典的な基礎なので、いわゆる修道士の為の組織だったわけだ。上述のよう明治以後の日帝が、近代工業を推進するべく旧帝大を作ったのとは根っこからして違っているから、日本の大学って一般に静かな環境にないのだ。無論、日本でも中にはそういうのもある。茨城でいう筑波大も確かにこの点では些か人工的ではあるが(寧ろ人工的な面で、通常の大学町にはない広大さや開放感もあるけど)、日本国内では最も世界の主要大学一般に近い類型を目指した例だけど、要は都市型大学ではない田園都市、または生活必需品は十分そろうくらいの田舎町の中に「学問に全力で集中できる環境をおもんばかって」、静穏な場をつくるのが長期的にも学際的熟慮というものだ。
少子化なので学生が集まらない、という考えは分かるが、自分がみるところ少子化は永遠に続くわけではない。この現象は日本全体の経済がうまくいっていない為の副作用で、簡単にいうと大企業と自民党が企業献金を通じ癒着しきっていて、彼らは日本全体の中流の生活状況を向上させるという目的を忘れ、小泉政権(特に竹中平蔵氏が政策ブレーンになって)以後と思うが新自由主義を導入して格差拡大路線に行ってもどってこない。いいかえれば日本全体の衰退とひきかえに、金持ちをますます金持ちにし、貧乏人をますます貧乏人にするという経済循環そのものが巡らなくなる構造を、大企業と自民党が共謀してつくっていった。当然これは少数派の利益を全体の利益に優先する判断にすぎず、いわゆる堕落した少数政治の代名詞である寡頭政治、ここでは自民党寡頭政治なわけだ。日本人の一般大衆がこの構図に最初から気づくほど賢ければ、当然、他の主要先進国同様、少子化がここまで深刻化していない。今後、否応なくこの新自由主義路線の失敗は修正されざるをえない。
投資家のジム・ロジャースがいうよう移民導入でアメリカ風の社会構造を、現安倍政権は目指している様だが、文化素(ミーム)の多様化を進める点で別に移民を入れるのが悪いと私は思わないからそれはいいとして(余りに移民コミュニティが巨大化してきたら、移民法みたいなもので、帰化していない人達の国民への害を減らす何らかの制限を加える必要は出てくると思うが)、問題は非正規雇用法が不安定な労働者ほど賃金が低い状態を放置していることである。できるだけ早く非正規雇用法を撤廃し不安定な労働者の雇用条件を安定化させるか、さもなければ不安定な非正規雇用者の方により高い賃金を与えねばならないという風に法を改善するか、どちらかだ。一言でいえば中流の最多性を復活させる必要がある。これは帰化した人達、もしくは移民そのものも含めての話だ。すなわち、大企業と自民党の癒着関係による二極化の推進が否定されるにしたがって、徐々に少子化は改善に向かい、維持できる人口動態へと戻って行くのが予想される。日本国民全般がそこまで利口ではないとしたら、少なくとも茨城県、又は北茨城市の範囲で中流の豊かさを取り戻す方へ経済政策を先進させないといけない。
総じて、上記の経過を辿って出生率は回復し、経済のしくみに導かれて過去と同等以上のくらしができる状態になり続けるだろうから、その際、市内に定着する若い世代の数が多ければ多いほどこの市の将来は明るいといっていい。学生が多いのもその一つだけど(ここでは今後、日本で必要だろう成人学習の文脈は後回しにしておく)、もっと大事なのは仕事場が市内にあることだ。しかし経済資本が集まってくる最初の原因は、私のみるかぎり文化資本の蓄積なのではないかと思う。よく学ぶ学生が沢山いたら、そこから飛び出して(スピンアウトして)独立した事業体ができるのがありうる話だ。いずれにせよ、学業は一般に低所得者を量産する方には進まない。市内の産業を高度化する方に行く筈だ。だから北茨城市立大学の様なものを構想し、行政が将来を慮って市内に若者を集める方途をとるべきだ。
私個人は私立大学の形で自分が将来作れるかなと思っていたんだけど、費用や文化の違いという面で、私立大以外にも公立の大学があった方がいい。現時点で学校の形は変容していて、ネットに講義流し、テストも時間区切ってオンラインで完結みたいになっていく流れだなと私は洞察している。費用面でも放送大学形式が最も経済合理的なのは目に見えている。だからもし私がなんか私大つくるなら、恐らくオンライン完結型になるだろうなと思うし、それはいわゆる普通の大学ではないでしょう。なので公立大学という、普通に住んで広大なキャンパスへ講義に通う形の大学もあった方がいいと思う。なぜなら学生コミュニティができ易いから。
学生時代に同じか似た志をもつ仲間ができるのはそれなりに役立つだろうし、アリストテレスがいう友情は、正にその種の広義の哲学(知恵を愛する)仲間がお互いに中庸を弁えた善い友人であれば永続するといっているわけで、旧キャンパス型大学の存在意義はそれがほぼ全てといえるのではないでしょうか。教授の人柄に触れるみたいなのとか、研究施設を借りるとかもあるでしょうけど、総じてこういうのは師事したり、研究所に入れば大学以外でもできるので。